第八章 選んだ道、選べぬ未来
You cannot choose in the future even if can choose the road
「岐路に立ったとき、人が選べる道は意外と多い。
例えば右へ行くこと、左に行くこと、進むことを止めること、引き返すこと、そして道無き道を行くこと。
けれど、どの決断を下しても、先が見えないことだけは同じだ」




「正確に言えば、君と輝更ちゃんの為、かな。悪くないだろ?」

 部屋を出かけた朔の背に、一馬が誰に言うでもないように呟いた。当然、朔に聞こえるように、ではあるが。

「君がもし、私たちの希望通り動いてくれたなら、私たちは君の希望を叶えよう。ギブ・アンド・テイクさ、悪くないだろう?」

 振り向いた朔に、一馬は頬に皺をよせてにいと笑う。

「具体的にいうとどうなるんだ」

 興味なさげな口ぶり。朔は立ったままライターの火をけると、短い煙草を銜えた。

「………戸籍改竄も容易だね」

 深い彫りの奥から黒い瞳が朔を射抜く。詰め寄るように朔の目を覗き込んでいた。年の割に一馬が若く見えるのは、その目の光りに依るところが多そうだった。

「………」

 戸籍の改竄。その言葉の意味を考え、朔は黙った。少なくとも、戸籍上血の繋がりが亡いことになれば法的な問題は解消される。

 無論、朔と輝更の事だ。

「余計なお世話だな」

 下世話な事をするな、と言いたげに寄っていた一馬の顔に煙を吹きかける。一馬は目を細め手を振ったが、気を悪くした様子もない。

「自分でも随分破廉恥な事を言っているとは思っているよ。でも、二人の幸せの為には必要な事じゃないのかい?」

 確かに。日本が法治社会である以上、合法と違法の差はあまりに大きい。

「君たちの事をよく知らない地域に生活の場も用意しよう」

 何も言わないところを見て、今が勝機と一馬は次々と鬼札を切ってくる。

「生活も保障する。車、絵画、豪勢な食事。望むものもすべて用意しよう」

「そんなものは………」

 口を開いた朔の言葉をさらに一馬が覆う。

「そんなものは、ということは、戸籍の改竄は欲しいと言うことかな?」

 きっ、と紅い目が睨む。誰しもに威圧感を与えるような一閃であったが、一馬は肩を竦めてそれを受け流す。

「これは失言だったかな」

 しかし悪びれた様子は微塵もない。

「まぁ今すぐに返答しなくてもよいよ。よく考えてくれたまえ」

 ふん、と鼻を鳴らすように朔は部屋を出て行った。

 おそらく。彼はこの話に乗ってくるだろうと一馬は確信していた。確かに朔は狂える王ではあるが、行動原理の深層は驚くほどにシンプル。いや、純粋とももしかしたら言えるかも知れない。

 要は、輝更への恋慕。

 くくく、と息を殺すようにして一馬は笑った。狂王が、冥王が。恋慕だと。純粋だと。笑えない冗談だ。

 しかし。やはり奴は狂っているな、と笑みを止めて思う。

 禁忌の問題を、法によって許されるか否かで片付けようとするなど。

 まぁ、自分も同じ穴の狢だと、一馬はまた静かに笑う。声は部屋の隅に淀む闇に吸い込まれていった。





 可憐な花弁が醜く汚れてゆくのを見ると。

 抵抗できない相手を嬲るように傷付けていると。

 耳を劈くような嬌声を聴いていると。

 濃厚な血の香りを嗅いでいると。

 肉が拉げ骨が砕ける音を聞くと。

 死と闇の深淵を一度でも覗くと。

 ………………嗚呼。

 俺の足場が崩れてゆく。重力が消え去りあらゆるものが死に絶える。その刹那、心臓が大きく一度脈打ち蒸発しそうな血が体中を巡る。

 あらゆる活動の停止。

 静寂と蓄積。

 柔らかな闇の一面を鮮血が津波となって粉砕する、駆逐する、殲滅する。

 代わって顔を見せる、狂気、暴力、混沌としての闇。蠢く臓器が脈打ち、水銀の毒素で満たされた、限りなく死と同意義の在って無き異界。

 思考理性の枷が砕けていくのが解る。純然たる破壊衝動と解き放たれる加虐性。腹の底から沸き上がる嗤いを堪えきれない。

「くひゃっ」

 遠くで嗤うなという声がする。戦慄く怒声が響いている、はずなのに、聞こえない。

「くひゃっはっはっはっはっ、っくっひゃひゃひゃっ」

 嗤いが止まらない。微かに残るいつもの自分が、落ち着けと叫んでいる。しかし一度燃えだした鉛色の炎は消える素振りもなく、嗤い声と比例するように大きくなる。

 それは煉獄だ。身を内から滅ぼす自分自身の本質にして制御しなければならない猛り。

 僅かに残る記憶の片鱗が、狂気を止めよと悲鳴を上げた。脳裏を駆け抜ける、決意の瞬間。追いやられた朔の理性は、思い出を浸るように沈んで。

 浮かび上がる、あの、時。

 一馬の部屋を出てホテルへと送られた。一馬の言葉が頭の中で逡巡し、捩れてゆく。

 輝更………

 一言呟電話をかけると、愛おしい者の透き通るような声が受話器から響く。

 少女の、少女なりの不安と戦いが在ることを知った朔。

 自分には何が出来る。その問いはやがて、自分は何がしたいか、というものに形を変えた。

 森羅万象。燃えさかる紅蓮の焔も、岩をも砕く瀑布も、音速を超える風の刃も、白銀で装飾された鐵の一閃も、貪欲に吸い尽くす木々の根も、打ち砕き殲滅する雷光も。そのすべてを飲み込む底なしの闇。

 自分はその力を使役出来る。望めば世界ですら、黒一色の世界に出来るだろう。

 しかし。自分はそんなことに興味はない。

 欲しいのはただ、輝更だけ。

 輝更だけなのに。

 皮肉にも、この力があってもこの望みは叶わない。

 朔は再び備え付けの電話をとると、渡された番号を押した。何度目かの呼び出し音が、まるで永遠に続くかと思いかけたとき、向こうからもう聞き慣れてしまった声が響く。

「もしもし」

 黒蔵一馬。内閣調査室特務課課長。

「聴きたいことがある」

「夕方の話の続きかな」

 朔を朔と確認することなく、一馬はあくまで柔和な声色であった。回りくどく話すのが好きでない朔にとって、それは好ましいことではあった。

「もし俺があんたらの話を飲んだとしたら」

 朔もまた、回りくどい物言いを避け核心を突く。

「まず一つ。長老会を壊滅させて欲しい。二つ。これは一つ目をクリアすれば大した問題は無いだろう、君が闇の現を支配して、我々との協力関係を強固なものにして欲しい」

 長老連、初めて知ったその組織には自分の祖父である琴里児雷也もいる。

「裏切れ、ってことか」

「裏切る?君を騙していた連中を出し抜くだけさ」

 こともなげに一馬が笑った声がした。確かに、その通りである。自分の精神崩壊を狙っていた連中を討つことが、果たして裏切りになるのだろうか。

 正直、愛着もなにもない闇の現も長老連もどうなっても知ったことではない。しかし、肉親に刃を向けることは朔といえども望ましいことではない。

 惑う朔に一馬の声が届く。

「よく考えたまえ朔君、君にとって大切なものはなにか、を」

 確かに。輝更と児雷也、どちらをとると言われれば迷うことなく輝更と答えるだろう。

「言ってしまえば、ご老体の思惑通りに動いても君は輝更ちゃんと一緒にいることぐらいはできるだろうね。でもきっと、今の君はもういないだろう。正気のまま彼女をものにしたいのなら、最初から答えは決まっているんじゃないかな」

 声は柔らかなままだが、どこか無機質な声。その冷たい響きに連鎖するように朔の思考は逡巡する。一つしかない答えを吟味するも、無意味な時間が過ぎるだけで。

 伸るか反るか、だたその決断を下すだけ。

「あんたらに、協力しよう」

 少年が裏切りを決めた声は、酷く醒めたものだった。

 記憶の泡、その一つずつが爆ぜてやがて意識が浮かび上がってゆく。そして、夢と現の境界に現れたのは、鎖で躯中を縛り付けられた、“闇”そのもの。

 最も濃き闇の中で蠢く真の闇。

 一体何度目の邂逅だろう、札と注連縄で包まれた躯は果たして神仏か忌物か。

 闇に浮かぶ紅い瞳。朔の双眼、そして“闇”の双眸。

 二対の瞳が闇に浮かび、朔は、どちらが自分なのか、解らなくなていくのを感じていた。境界がぼやけてゆく熔けてゆく自我。しかしそれはどこか心地よく。

 ああ、もしこの巨大な闇が俺自身なら。

 少し、力を貸してくれよ。

 闇が晴れてゆく、闇が無に消えて行く、意識が引っ張られるように、闇から朔が消えていった。しかし、巨大な“闇”は爛々と紅い瞳のまま、ただそこにあった。

 自身の身に迫った危機が、狂気を退け朔の正気が肉体に戻ってくる。

 目の前には襲いかかる壌の間近まで迫った姿。そしてそれを見た朔の視線は何かですぐに覆われた。

 百合子が覆い被さるように抱きついたのだと理解するのに時間は要しなかった。しかし、懐かしい感触が時間軸を歪ませたようにも感じられて。

 この匂い。この感触。でも。

 俺が選んだのは輝更であって、百合子、お前じゃないんだ………

 このままでは百合子ごと壌の野太い腕で押し潰されることは必死。しかし逃げるにもしっかと百合子に抱かれて身動きが取れない。技を出すにも、腕には間合いがなさ過ぎる、焼刃を出しても振れない、穿は、発動に間が足りない。直接触れていない闇に働きかけるには溜とも言えるような間が必要だからだ。

 移しは、まだあの一度しか使えていない。

 万事休す。

 朔は命の危機であるというのに酷く冷静な自分がどこか可笑しかった。身体は火を吹きそうなぐらい熱いのに、頭だけが凍り付いたように凍てついていて。

 頬が少し吊り上がっていることに気付き、心で自嘲する。死を嗤うなど、自分もつくづく狂っている。

 そして。狂気と醒めた頭脳が、残酷な術を思い立つ。  

   百合子と触れ合う部位。こんなにも近くに、影は出来て闇はある。

 これに働きかけ、穿を出せばいい。刃は百合子を貫くだろう。鮮血が床を汚すだろう。しかし、自らは既に肉親を裏切り輝更を選んだ身。

 何を迷う。何を迷う御鏡朔。

 幾億の亡骸を山にしても、骸を踏んで歩んでも、屍肉を喰らい、生ぬるい血を啜ってでも。

 俺が俺として在る為に。犠牲など。

 死血山河のその先に、気怠いくらいの甘露があるのだから。

 決断せよ、覚悟を決めろ。得るものの為に失う覚悟を。

 正気の沙汰じゃないさ、そう。俺は狂ってる。

 闇の刃が、百合子を貫き壌に突き刺さる。心を走る無数の線が、切り裂かれたような感じがした。

 ゆっくりと立ち上がる。朔は嗤った。自分の意思で。

 翼の悲鳴が遠くに聞こえる。それも、またいいだろう。

 裏切りの果て。血塗られた道を選んだならば、それもいいだろう。

 ただ今は、今だけは。何故かどうしようもないくらいに渇いた心を慰めるように、腹の底から浮かび上がる嗤いを堪えられなかった。

 百合子の血が温かい。ぼんやりと立ち尽くす朔の脇を、悲鳴を上げ続ける翼の脇を、搦手達が駆けてゆく。

 怖れと蔑みの混じったような視線を感じたが、嗤いは止まらない。

 異形の悲鳴と、狂王の嗤いが月夜に滲みては熔けていった。






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