第七章 契約の代償
Equivalent exchange
「何を捨て、何を得るか。まるで人生の縮図だ」
言霊はモノに名を与え、名にそのモノを縛り付ける。具現とはそういう事だ。
「鎌よ、出ろ………」
手の中で揺蕩う暗闇は、朔の言葉に応える様にして鎌の形をとる。
巨大な鎌だ。
身の丈程ある柄の先に、大きく弧を描いた刃が黒々とあった。
砂埃は未だ視界を塞ぎ、翼の様子も禍凶の姿もはっきりとしない。しかし躙り寄る様に濃い瘴気は今、そこに、強大な力を持った異形が確かにいる事を示している。
「よう、弓削」
鎌が狭い通路で振り回すにはあまりに大きい事に気付いてか、二回り程縮めながらの問いだった。伸縮は既に会得している業だ。
「そのツチクレってのは、どんな敵よ」
言葉は百合子に向けられているが、顔は砂埃に向かったまま。『壌』の漢字が頭に浮かんでいない様で、その部分だけやたら発音がはっきりしていた。
「どんな、って………教典は?見ていないの?」
朔の細い背中により細い百合子の声が返る。
「教典………?」
語尾は上がっていたが、朔は振り向かない。
「………見ていないの?真言在陰乃書と共に残る古文書、死忌教典儀よ?一度くらいは………」
「知らねぇな」
違和感。
電流の様に身体を流れる其れは、百合子の鼓動を早めさせた。
闇の現を統べるはずの冥王が、教典を見せられていない?
何故?時間がなかった?
まさか。目覚めてからもう一ヶ月は経つ。暇ならいくらでもあった。
では、何故?
「ちっ、聞いてる暇ももうなさそうだな。………来るぞ」
思考の逡巡に踏み込んだ百合子を引き戻す、いたって冷静な声。はっとなって前を向けば、埃が大きくうねっている。
「廊下じゃ狭い、ロビーで殺すぞ」
その刹那、埃を切り裂く様に異形の者が飛び出してきた。
野太い腕が肩から四つ、生えている。
それを除けば、まぁ人に見えなくもない。強靱な腕を支える様に、何も纏わぬ上体はそのかわり、筋肉の鎧で纏われている。胸筋、腹筋とそれは人間のそれに近い。
しかし、本質的に人とは異なるものなのか、節々から管の様なものがはえた身体は正しく禍凶。
しかし、確かに今までの禍凶とは何か別物に見えた。
四つの腕をぎりぎりいっぱいまで広げ、その『壌』は朔に向かって突進する。朔と百合子は一直線上にあった。後ろの百合子はまだ廊下に踏み込んでいないので脇に避けられるが、朔は横に逃げ場がない。かといって、後ろに飛んでも避けられない。
「ちっ」
軽く舌を打つと、朔は一度縮めた鎌を再び伸ばす。
勢いよくのびた鎌の先は床に突き刺さる。すると朔は鎌を思い切り引き寄せた。柄が不自然な程撓る。元は無形の鎌、硬度は朔の意のままである。
鎌を撓らせる朔に構わず突進する壌。その身体は濁った浅葱。表皮は今までの異形とは違い、ナメクジのそれではなく、まだ生き物らしい。
しかしやはり異形。『ありえそう』は、『ありえない』ものより人の目には醜く見える。生への冒涜ともいえるおぞましき姿、壌には首から上がない。
目は腹にあった。血走る目は紅。狂気の色。
「ふっ」
十分に撓らせた鎌を握る腕の力を抜くと同時に、床を思い切り蹴る。朔の身体はその反動で宙を舞った。
背後に回り、百合子と挟み撃ちにする算段である。
「口はどこにあんだよっ」
其れは宙を舞いながらの戯れ言の筈だった。しかし飛んでいる僅かな時間で、朔の血の気が一気に引く。
上から見た壌の背には、腕、腕、腕………
左右に四本づつ計八本もの腕が折り合わせる様に背中を包み込んでいる。
その腕たちが開いたかと思うと、そこには穴が見えた。
それは人の口によく似ており、紫色の襞が背を左右に分ける様に在った。そしてその口の周りから、八本の腕が生えている。
背の上を飛び越えようとした朔に向かって、異形の背から腕が伸びる。
「くそっ!!」
のびた腕が朔の双肩を強く掴む。その時異形の口が開いた。人一人を簡単に丸飲み出来そうな位に開かれたそこには、濁った色の液体。それは涎なのか口内に糸を引き、腐敗臭を漂わせる。
「危ない!!」
背の腕がその開かれた口に朔を引き寄せようとした瞬間。百合子の悲鳴の様な声と共に、空を切り裂くものがあった。
ひゅん、という音と共に捕まれていた朔の身体が急に軽くなる。見れば今まで自分を掴んでいた二本の腕が、緑色の体液と共に宙を舞っているではないか。先程の空気の切り裂かれる音は、どうやら朔を助ける為のものだったらしい。
とはいえ、このまま自由落下では口に収まってしまう。朔は腕に闇を纏わせ、『腕』を伸ばす。鋭くのびた闇の爪を天井に突き刺し、巨大な口に入る前に身を持ち上げた。
腕を振って、一応当初の予定通り異形の後ろに飛んで着地する。見れば切り落とされた腕は他の禍凶と同じように腐敗の過程を辿るようにして消えていった。その時壌の向こうから百合子の声がする。
「大丈夫!?」
「ああ………助かった。………今のが『木』の力か」
着物の袖から覗く百合子の細い腕には、文目が一輪握られていた。
今は普通の木の枝だが、先刻あの腕を切った時は茎だが蔓の様に延び、撓り、更に刃の様に切り裂いていったのを朔は見ている。
繁茂する樹木の神、世宮螺。その力は植物を自在に操る事が可能となる。
さらに植物の持つ効能を数倍に引き上げる事も可能となり、それ故薬草などを用いて傷を癒す事も出来る。それ故、木の搦手は闇の現の中で重宝される存在であった。
「油断しないで、背中の腕は何度でも再生するわ」
百合子は花一輪では心許ないと思ったのか、帯に挟んでおいた短い枝を取り出した。
百合子がそれに力を込めると、枝は急速に伸び更に葉を生やし花を咲かせた。ロウソク状に盛り上がって咲き誇る白い花、栃。
「来る前に折っておいてよかった………気を付けて、壌は………再生するわ」
その言葉に朔は少なからず驚かされた。今まで見た禍凶の中で、再生能力を持つものなどいなかった。
言われてみると確かに、百合子によって切り裂かれた断面は不自然に蠢いている。既に再生が始まっている様だ。
科学的にその存在を認められている生物にも、プラナリアのように再生能力を持った生き物は確かに存在する。しかし、こんな短時間で再生を始めるなものはいない。
異形の、異形たる所以か。
しかし、だ。
「再生する奴なんてどうやって殺すんだよっ!!」
そう言っている間に、みるみるうちに腕が生えてゆく。
「ガァァァァッ」
短い咆吼。壌は再生を待たずに今度は百合子へと突進する。
異形の右肩から生える二本の巨椀が繰り出される。
しかし先程の朔とは異なり、横にも空間があるロビーでの対峙。百合子は袖を翻す様に左へ飛んだ。壌の拳は空を殴り、百合子は動きの止まった異形に向けて栃を払う。
何処にでも生えている植物も、百合子にとっては鐵より堅い刃となる。
ざしゅ、という肉の裂かれる音と、飛び散る緑色の血流。
「浅い………」
思わず呟いた声。恐るべき再生速度、切り口は既に蠢き、出血は止まっている。
「背の腕に気を付けろっ!!」
朔が短く吠えるとともに小さくかける。既に背の腕は八本に戻っていた。
まるで別の意志で動いているように、壌が硬直していても背のそれは動いていた。右側四本の腕が払いの動作が終わり切れていない百合子に向かって腕が伸びる。
朔は鎌を振ったが、斬ったのは二本のみ。
『くそ、いつもの調子で振っちまったっ』
二回り小さくしている事を失念していた朔が仕留め損ねた残りの二本が、百合子に向かって一気に伸びる。
百合子は未だ払いきった儘の姿勢………、否。払った勢いに乗ってその場で回る。栃の長い葉が扇のように広がる。
まるで舞を踊るかの様に振り向き様、百合子の木は迫り来る腕を切り落とした。
「ひゅうっ………」
一瞬だが、朔はその姿に見とれた。そして隙が生じる。
「っ、サクっ!!」
百合子の叫が叫ぶ。目と目が合う。
おい、今、サクって言ったよな。
下らない事に気をとられた。
集中が途切れる。
壌が身体を回し、再び拳を突き出した事にも気付かぬ程に。
ごっ。鈍い打撃音。細い朔の身体が宙に浮く。
しかし吹き飛ばされながらも思う。痛みは不思議と感じない。
なぁ、おい。今、サクって言ったよな………
百合子………
お前の事が好きだった。
嘘じゃない。本当だよ。
そりゃ、輝更の事はずっと意識してた。
でも、本来なら結ばれない相手だから。
だから、お前の事が好きだったよ。
本当なんだ。
今まで言えなかったけど、あの感情は嘘じゃなかった。
なぁ、百合子………
どうして俺達は、こんな風になってしまったんだろう。
互いに、他人行儀に名字で呼び合って………
なぁ、どうしてこんな風になっちまったんだろう。
百合子………
………
………
でも………
ゴメン………
目に映るのは埃だらけの木の床。
「………っうっ…………」
霞がかった思考、しかし身体は正直に悲鳴を上げる。
痛い。
骨が軋む様な痛みが、急速に頭の靄を振り払ってゆく。
慌てて立ち上がる、体中が疼くが倒れているわけにはいかない。
………気を失った?どのくらい?一、二秒?
それよりも。
「弓削っ!!」
思わず叫んだが、百合子はすぐ目に映る。まるで舞う様に、その長い黒髪を翻して、一人で壌と戦っていた。
しかし、明らかに押されている。殆ど相手の攻撃を捌くのに精一杯で、攻撃する暇が無いように見られる。
「穿っ!!」
咄嗟に言霊を放つ。朔の足下の暗がりから一直線に、黒色の刃がその牙を剥いた。
突如として現れた闇の刃は壌の右肩から生える二本の腕を捉える。野太い腕が切り落とされ、異形は体勢を崩した。
よろめく壌、咄嗟に百合子は手を翳す。
袖の中に潜めておいた種が放られ、それが一気に成長しだした。種子は刹那の間に蔓となり、壌の全身巻き付く。
ぎちぎちと肉が擦れる音がする。蔓の端は百合子が握り、それは禍凶締め上げていた。
「ふっ!!」
短く息を吐くと、百合子は握っていた蔓を上体を回しながら力強く引く、と同時に手を離した。
建物が揺れるかのような衝撃を走らせ、壌が倒される。足にまで巻き付いているので、立ち上がれずに這うように藻掻くことしかできない。
「くっそ、だから再生する奴をどう相手にすれば良いんだよ」
倒されながらも、朔によって斬られた切断面は蠢いている。腕が元に戻れば、巻付いた蔓も引きちぎられかねない。
「再生なんて………そう何回も出来るも訳ないじゃない………」
痛みを堪えるように絞り出された声が、廊下から響く。
「………寝てんのかと思ったぜ、お前」
「ふんっ………」
口の端から滲む血を拭き取りながら立ち上がったのは、翼。服は埃まみれで酷く汚れていたが、外傷は見られない。
「気を失ってただけよ………」
そう言ってずれた眼鏡を直そうとしたが、レンズが粉々になっていた。
「………最悪」
仕方なしに役に立たなくなったそれを投げ捨てた。眼鏡が無くてはやはり見づらいらしく、皺がよる程目を細めた。
「で、何回も出来ないって、どういうことだ?」
「再生という事は細胞分裂で起きるの。そして生物の細胞分裂の回数は決まっているわ、それは禍凶でも違わない………つまり、あいつの再生能力以上の攻撃を加えてやれば、最後には倒れるわ」
肩、首と回し、骨の様子を確かめた翼は、すぐに右手を翳した。
「言うは易だ………」
朔の皮肉ともつかないつぶやきには耳を貸さず、翳した手に集中する。すると、ひゅん、ひゅんと風切り音。みれば小さな風の渦が、翼の腕を回っていた。
去りゆく風の神惟琶王、その力は名の通り風を繰る力。突風によって吹き飛ばすことも、真空によって切り裂くことも可能とする。
「そうね、その通り、だわ」
小さく呟いたその声は風に掻き消された。
「ユユ、花弁を!合わせるわよ」
そう叫んだ翼が腕を出すと、渦を巻いていた風が壌へと吹き付けた。鋭利な刃と化した風が壌の周りを吹き荒び、肌を掠めては傷付ける。
「ぐおおぉぉぉおぉぉおぉぉぉお」
風が自分を囲むように吹き荒れ視界が塞がれた壌は、背中の口からどもったような呻き声をあげた。低く響く、耳に障る音。朔が顔を顰めたとき、百合子はその歩を進め壌に近づいていた。
再び手にした栃の枝を翳すと、花弁が急に散り始める。それは翼の風に吸い込まれるように渦を描き、さながら花吹雪のようで。この場には不釣り合いなほど、美しい。
白の花弁が刃となり、風に吹かれ壌を裂く。肌から垂れる体液に純白の花弁が穢れてゆく様は、朔の頭の中をちりちりとさせた。
「………動きを止めたところで、じゃ、俺が再生できなくなるまで痛めつけてやればいいって訳か」
脳髄の奥がじりじりと焼け付くような感を抑え、朔は鎌を構えた。気付けば、唇の端が吊り上がっている。
どうも、いけない。
純白が穢れてゆくのも、抵抗できない相手を痛めつけるというのも、どうにも。
どうにも、どうにも。
………楽しくて、仕方がないね。
頭の中の熱が奔流となり、体中を駆けめぐる。時間としては刹那、しかし朔は気が遠くなるような時間をかけ白と黒の世界を駆け抜ける感覚を感じていた。
意識が、闇に墜ちてゆく。
「くひゃっ」
不自然な嗤い声がした。
それとともに大きく振りかざされた鎌は、果実が潰れるような音と共に、壌の腹に鎮座する紅い目に突き刺さった。
「ぐぎょあぁぐぅああぁぁぁああぁああおおうぅうぐぎょあぁあああぁぁぁぁ」
哮る壌。痛みに任せ振りかざそうとする背の腕を、翼は風の渦を収斂させて拘束させる。
百合子も持ってきた花たちの花弁を刃に変えて、花吹雪とさせていた。共に、壌の動きを止めるのに必死である。
しかし。嗤い声がする。
歪んだ、不自然な音の。
鎌を突き刺したまま、飛び散った体液を顔に受けても拭おうともせず。
「くひゃっはっはっはっはっ、っくっひゃひゃひゃっ」
肩を歪に上下させ、眼を見開き、朔は嗤う。嗤う。嗤う。
「あひゃひゃひゃひゃっ、くあはっはっはっはっはっはっはっはっ」
嗤い声が、闇を揺り動かす。朔を包む闇が心なしか濃くなったようで。
「ぐぅぅあああああぁぁぁぁぁぁ」
腕が裂かれ肌が裂かれても尚暴れる壌。鎌の刺されたままの眼は再生しきれずぐちゅぐちゅと不快な音を立てる。
「ちょっと、馬鹿!笑ってないでちゃんと攻撃しなさいよ」
翼が怒声をあげた。余裕のない叫び。なぜなら今、ほとんど全力で風を起こしているのだ。全力を出し続けている以上、この風を長くは維持していられない。早く殺してしまわなければならないのに、何故。嗤うな、嗤うな。
しかし朔はそんな翼の様子など気にも留めず、ただひたすら、歪曲した嗤い声をあげている。そんな姿を、翼と同じく消耗しつつある百合子は悲痛な眼で見つめていた。
「笑うな馬鹿、殺せるときに殺しなさいよ、馬鹿、馬鹿野郎」
力尽きる寸前の叫びだった。風は花弁を激しく舞わせ、壌の身体を深く切り裂き、そして消えていった。
どさっ、という音と共に崩れ落ちる翼。
「翼っ」
膝を落としかけた百合子が叫び駆け寄ろうとしたが、翼は手を出してそれを制した。
「そこの馬鹿を連れて早く逃げて!今の私たちじゃもう勝ち目は無い!」
壌はその場に蹲り、傷付いた部位の再生に集中している。しかし、すぐに襲いかかってきそうな様子である。
「………ここは、私が食い止めるわ。ユユは逃げて、下の連中と合流して」
そう言って立ち上がろうとしたが、上手く足に力が入らず膝を付く。
「なに言ってるの、貴方の方が消耗が激しいじゃない」
そう言って再び駆け寄ろうとした百合子を、静かな声が再度制した。
「確かに、私の方があの馬鹿連れて行けないくらい消耗してるね………」
突き刺さったままの鎌、その前で、朔は嗤っている。逃げる様子も、この隙にと攻撃をする様子もない。何がそんなに楽しいのか、狂王はひたすらに嗤っているだけ。
「比較衡量よ。ユユは、ユユが大切な方を守りなさい」
命ある者は皆、決断をしなければならない。自分の為、誰かの為。そして選んだ道しか歩むことを許されず、選ばなかった道の先を知る術もない。
どんなに残酷でも。どんなに救いが無くとも。選択肢の前で、人は選ばなければならない。何が最善なのかわからずとも、それが正しいのかわからずとも。誰かを見殺しにするとしても。
「………まだ好きなら、守ってあげな」
『好きだ』という言葉を飲み込んで、綺麗事で誤魔化した。これが自分の最後の言葉になるのだろうか、そんなことを思いながら、涙を堪えるように朔の方へ駆けた百合子の背中を眺めていた。何故か酷く、ゆっくりとそれが見えて。
何故自分は女だったのだろう。ああ、いや、これは自分の心に正直じゃない。女だったことに文句はない。ただ、何故百合子とは結ばれることのできない存在だったのだろう。それが悔しい、それだけが惜しい。
朔のことが嫌いだった。自分の大好きな百合子を奪って、そして捨てて、傷付けた。それなのに、まだ百合子は朔のことが好きで、そんな百合子の為に自分は、自分の大嫌いな朔の為に、死ぬのかも知れない。
馬鹿な、馬鹿馬鹿しい。死んで堪るか。そうだ、ちゃんと朔が止めを刺していればこんな事にはならなかったわけで、悪いのは朔だ。意地でも生き残って、一発、ぶん殴ってやらないと。
死ねない、死にたくない、死にたくないよ、百合子………
百合子は嗤ったまま動かない朔を必死に連れて行こうと、服の裾を必死に引っ張っている。『サク君、サク君』と、懐かしい呼び方で必死に名を叫んでいる。早く正気に戻れよ狂王、ユユが困ってるじゃん。
「ぐ、がぁ、ぁぁ」
消え入りそうな音。しかし人の発するそれとは異なる発音。それが耳に入った瞬間、翼の意識が現実に戻る。今までコマ送りのようだった映像がきちんと動き出した。
再生を終えた壌が立ち上がり、今、当に襲いかかろうとしている。
叫びは声にならなかった。
百合子は朔を庇うように抱きしめる。
そして。
百合子はその口から、美しい紅色の血を吐いた。
朔を抱きしめた百合子、その背中から突き出した闇色の刃、それは壌を突き刺している。
何処から出た、一瞬の思索に陥る翼。しかし答えはすぐにわかった。
百合子の体内、そこは光の当たらぬ闇。その闇に働きかけ、朔が、百合子の身体の中から刃を突き出した、のだ。
じんわりと紅く染まり出す百合子の背。
しかしまるで無関心とも言いたげに、ゆっくりと立ち上がる朔。力無く、百合子の身体は崩れ落ちた。
嗤う朔。
翼の悲鳴は、ようやく言葉となった。
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