第六章 安らかならざる死
die a unpeaceful death
「死して尚苦しめ。」




 腐りかけの扉が耳障りな音を立ててゆっくりと開く。  外にいた時以上に不快な臭いが立ちこめている。

 人気のない、朽ちるのを待つだけの病院。入ってすぐはその名残を残したロビーだった。 受付のカウンターが正面に置かれ、その両隣に昇りの階段。

 外から見た分で、おそらくこの建物は三階。朔は暫く黙考し、自らに従って入ってきた六人に向いて言った。

「・・・三つのグループに分かれる。二、二、三、だ。三人組は・・・三階だ。二組はそれぞれ、二階と一階を回れ。」

 六人はこの言葉にまた多少の驚きを感じた。朔は今まで皆を仕切ることなど無かったからだ。

「七人全員で回るには、ここは通路が狭すぎる。戦力を無駄に下げるくらいなら、最少人数で一気に終わらせる。・・・文句は、ないな?」

 一応意見は聞いてはいるが、その声に有無を言わせない迫力がある。器たちは黙って頷くしかない。

「・・・どう分けるんだ?」

 燎士が六人を代表するような形で問う。

「俺達の中で強いのは、リョウさんと・・・織部だったな・・・」 

 燎士と氷雨は他の器たちの顔を見渡した後、首を縦に振る。

 朔を含む七人のうち、今現在最強と目されるのが最年長の燎士、そしてそれに次ぐのが氷雨だった。

 長く戦いに身を置いてきた燎士が最も己の力を使いこなしていたし、もともと根が真面目で上昇志向の強い氷雨がそれに追いつくような実力を持っている。

 それは実力によって序列が着くわけではない全員の中でも、暗黙の了解とされていた。

「戦力を均等に分けたい・・・二人と、俺は別のグループだ。二人はあと一人と組んでくれ。俺には、二人ついてもらう。・・・俺と二人の三人で、三階に行く。」

「三階・・・おいサク、解ってるのか?最も強い禍凶は大抵・・・」

『一番奥にいる』そう言いかけた燎士の言葉を朔は遮った。

「解ってる・・・だから行くんだ・・・だから三人で行く。三人もいれば、死にはしない。もし三階にいなくても、一階、二階にはリョウさんと織部がいるから・・・二人で討てなくても他の連中が駆けつけるまでは、持ちこたえられるだろ。それに・・・」

 言葉を詰まらせ、背を見せる。

 そして消え入りそうな声で言った。

「命懸けの方が・・・強くなれるだろ・・・」

 言葉とは対照的に、六人には見えぬ目には力強き光が宿っていた。

 紅い、血の色をした光が。





 グループを決めるのに大した時間はかからなかった。。

 三階は朔を守るべく、最も連携がとれる翼と百合子が徒もだってゆくこととなった。三階の次に凶悪な禍凶の出る可能性のある二階には、部で同じことから燎士と真由の二人となり、結果残った大地と氷雨が最も安全であろう一階を回ることなった。

 五人が階段を登ってゆくのを見送って、氷雨と大地は顔を見合わせた。

「ふぅ…息が詰まるよ、今夜は。あんたもそう思うだろ?」

 大げさに息を吐き出すリアクションをとったのは大地。氷雨に対しても言葉遣いは変わらない。

「お前は巫山戯すぎなんだ。御鏡が睨むのも解らなくない。…しかし今日の雰囲気は確かにいつもと違っていたな…」

 年下の大地を窘めながらも、氷雨は先程の朔の雰囲気が気にかかっていた。

「ああ、急に真面目になっちゃってよ。『何の為に戦うか』だって?頭でも打ったか?」

 氷雨の注意は耳に届いていないのか、大地は巫山戯た儘の調子だ。

「王としての自覚が出たのか…それとも酔狂か…気になるな…」

 気になることはあるものの、こうして立ち尽くして居るわけにもいかない。二人はゆっくりと歩を奥へと向けて歩き出した。

 古い廊下は歩く度に軋む。ぎしぎしと耳障りな音が木霊しては消えて行く。

「ところでお前は何の為に戦うんだ?先刻は答えていなかったろう?」

 灯り一つ無い暗い廊下を黙したまま歩いていた二人だったが、氷雨がその沈黙を破った。

 氷雨の問いに大地は一笑。それがどうにも氷雨には癪に障るものだった。

「何の為?戦いそのものが理由、と言えば解って貰えるかな?」

 口元に笑みを浮かべたまま、さも楽しげといわんばかりに大地は語る。

「戦いそのものが理由…?」

 怪訝そうな顔の氷雨に対し、大地は「わからないかなぁ」と言いたげな顔で続けた。

「そう、戦いという手段そのものが俺の目的。戦いの愉悦を味わう為に、何度でも何度でも、戦う、戦う、戦う…ふふふっ…」

『正義の為』に戦うという氷雨にとって、目の前で笑いをかみ殺している少年は異質なものであった。

 冥王の様に狂気に侵されている訳でもない。だのに、未だ年端もゆかぬ少年が戦いに悦楽を見いだし、その身を戦いに置いている。

「労しいな……」

 哀憫と侮蔑を含んだ氷雨の一言。それに大地は過敏に反応した。

「…むかつく言い方だな。」

 氷雨を睨み付ける少年の双眼。それは酷く冷たい色を示す。

「大体…望みもしないこんな力に目覚めて、いきなり戦えって言われてきたんだ。…それ自体楽しむ以外で容認できなかったんだよ。」

 怨嗟にも似た声が、大地の口から放たれる。少なからずその言葉に氷雨は動揺した。

「俺は確かにあんたみたいに高尚じゃない…でもな、だからって見下されるとマジでむかつくぜ。お高く止まってんじゃねぇよ。」

 黙って何も言えなくなる氷雨。立ち尽くしたまま、下を向く。

「…これだから、あんたみたいな生真面目タイプは嫌いなんだ。分が悪くなると黙るかヒステリックに怒りやがって…ボサッとすんなよ、来るぜ。」

 その声に氷雨も顔色を変えて前方を見た。

 細い廊下の先、その闇が不気味に撓んでいる。

「居るな…」

「ああ…くくくっ、さぁショウタイムだ…」

 大地は背中にベルトで挟んでいた特殊警棒を取り出す。20センチ程度の棒が、大地が軽く振った瞬間三倍以上の長さになる。

 三段警棒、本来ならスチール製の護身用具だが、大地のそれは鉄製だった。

 振りかざす度に、鋭く裂ける空気の音。

 氷雨は自らの右手に力を込める。空気中の水蒸気を集め、水に変え、凍らせる。

 そして現れたるは氷の剣。武器の具現、焼刃の力。

 警棒と剣をそれぞれ構えた二人の前に、撓んだ闇から禍凶が姿を現す。

 サッカーボール程度のナメクジの様な躯、毛の鳥の羽を持った生き物が何匹も飛び回る。 その中、四つん這いで歩くものがゆっくりと前に出た。

「屑に…“芥”、か…」

 

 二階、階段を上がったそこはロビーになっていた。嘗てはさんさんと降り注ぐ日光を受け入れていたであろう飾り窓は、今や朽ち果てて見る影もない。

 朔、百合子、翼の三人の背を見送ると、燎士は煙草に火を付けた。指から火を出す彼の仕草を、真由は黙って見つめている。

「…吸うか?」

 黒いタバコケースを真由に向けたが、彼女は首を振ってそれを断った。

「…戦う理由を聞くって事は、先輩は自分の事、知らないって事ッスかね…」

 真由の一人称は『自分』である。つまり朔は私の事を知らない、という意味だ。

「だろうな。あいつは多分、まだはぐれの事なんて聞かされてないだろ…長老連は今、兎に角サクに王として目覚めて貰いたいだけだ。余計な事なんて、伝えてないはずだ。」

 灰を床に落とした燎士の顔は複雑。長老連、その長が自分と朔の祖父なのだから。

「……ま、自分はただ戦うだけッス。家族の為にも…」

 真由は笑う。屈託の無い顔で笑う。その笑みの裏に、どれだけの苦悩が在ったのだろう。彼女の事情を知っている燎士にも、それは推し量れるものではない。何も知らない朔なら尚更だろう。

「…ああ、戦うだけだ。戦って、生き残れば問題ない。何も…何もだ…」

 そこまで言うと、燎士はまだ長い煙草を捨て、足で踏みつぶす。

 部屋の隅の闇が蠢いている。

「出るぞ…」

 燎士は二つの拳を作り、それを熨す。そして言霊を載せた。

「…『纏』。」

 刹那、赫い焔が爆ぜて顕現した。

 炎が両腕を纏う。彼の武器は彼自身。徒手空拳が戦いのスタイルだ。

 燎士が器の中で最強と目されるのは、彼が最も力を使いこなせていることに由来する。

 朔なら闇、氷雨なら水蒸気や水と、『触媒』に力を加えることで操る『収』は搦手にとって初歩中の初歩たる業。

 しかし燎士は一歩進んだ高等技術、『斂』の業を既に納めていた。それは収と異なり触媒を必要としない。自らの力、神の異能なる力を練ることで、それ自体を火や水に変える業。

 本来なら存在することのない神の焔。赫い焔、それが燎士の力。

「流石ッスね…さて自分も。…纏。」

 真由の操るは雷。しかし未だ収の業のみしか使えぬ彼女は触媒を要する。雷神の器たる少女の触媒、それは地電流。地球の表面を常に流れる電流。

 本来なら微弱な力も、異能の力によって迸る電流となり真由の両腕に顕現し纏い付く。彼女もまた、燎士と同じく徒手空拳を己の武器とする。

 二人ともに、腕に異能の力を纏ながらもあくまで自然体に立っている。しかし全身からは空気が戦慄く程の殺気、殺気、殺気。

 さながらそれは獲物を狙う獣。四つの瞳が闇を射抜く。

 大陸伝来、心意六合拳。徹底した半身思想と超接近戦術が生んだ比類無き剛の拳。

 曰わく無極より太極に至り、両儀を生じ四象と成す。

「芥…二、いや三匹いるな…」

「結構、厳しいッスかね…」

 部屋の隅から生じた三匹の闇、あまりに濃い黒色の躯はまわりとの臨界を曖昧にしている。四つ足で、肉食獣の頭を持った禍凶。

 口には鋭い牙が並び、気色の悪い色をした涎をだらだらと流していた。

 目は一つ、巨大な目が顔の中心に鎮座している。

 一つ目の獣たちは二人との距離を少しずつ縮めてくる。

「…さぁな」

 燎士は真由の声に曖昧に答える。それで会話は終了だった。

 炎は爆ぜ、雷が迸る。戦いの火蓋は、既に斬って落とされていた。

 

 三人になっては、話す事など無かった。

 息が詰まる様な緊張に包まれながら、翼は先頭に立って階段を登っていた。後には百合子、朔の順に続いている。

 戦う理由、先程朔が言った言葉が、翼の中で徐々に大きくなっている。

 大きく首を回すことなく、横目で百合子の表情を見た。

 目を伏した少女の睫は長い。

 戦う理由、勿論自分にだってそれはある。けれど、それを口に出すのは憚れた。

 結局、自分に流れる眷属の血は忌むべきものなのだろう。

 胸の内に秘められた感情は、禁忌といわれるものなのだから。

 狂王に従う自らも狂気に満たされて。嗚呼、救われないね。

「翼………?」

 視線に気付いたのか、百合子が訝しげな目を向けた。

「敵か?」

 殿を務めている朔も険しい目をしている。

 二人の顔が、まとめて視界に入る。嘗ては当たり前だった光景。けれどもう、二人の距離は縮まらない。

 仕方のない事だ。生まれ落ちた時から、二人は結ばれぬ定めだったのだ。

 別れを告げたのは百合子の方だったし、それは正しい選択だったと思う。けれど。

 何故彼女はあんなにも、そして今でも苦しまねばならないのか。

 何故彼は、彼女にもっと優しくしてやれないのか。自分の気持ちをもっと早く受け入れていれば、自分の中の狂気をもっと早く受け入れていれば、彼女をこんなにも苦しめる事は無かったというのに。

 ………なんて無駄な想いだろう。なんて無意味で、なんて虚しい。

「なんでもない、さっきの問いの答え、自分なりに模索してただけよ。」

 百合子はその言葉に反応して目を逸らしたが、朔は『はぁ?』と言いたげな顔を見せる。

「それで、後ろ向く必要があんのか?」

「まさかあんたがあんな事聞くとは思わなかったからよ………他意はないわ………」

 言いきって顔を前へ向ける。朔は何も言わない。

「行きましょう。」

 百合子の言葉に促される様にして、三人は階段を登り切った。

「個室ばかりだな。」

 一度辺りを見回した朔は、目にかかる髪を払いながら言った。紅い瞳が生き物の様に動く。

 階段を登り切ると、すぐに左右に細い廊下が延び、木製の扉が廊下に並んでいる。

「別行動は、危険ね。面倒だけど、虱潰しに行きましょう。」

 百合子のその言葉に翼は頷いたが、朔は鼻を鳴らして反応を返す。朔の動作に、百合子は目を伏せた。

 やるせなさで胸が詰まる。翼はイライラしていた。

 確かに別れを告げたのは百合子の方。けれど、あまりに朔、あんたの振る舞いは酷すぎる。そう胸の奥で思っても、自分に言えた義理はない。

 強く奥歯を噛み締める事しか出来なかった。

「決まりね、近くから行くわよ。」

 苛立ちを隠す様に、努めて冷静に言いながらすぐ側のドアノブに手を伸ばす。しかし。

 冷静さを装うのに必死で、冷静さを欠いていた。

 注意の怠慢。それは決定的な油断。死に至る道。

 戸を開いたその刹那、翼の目には部屋の闇が映る。

 そして、闇の中に血色の双眸。

『闇の中に闇があり また闇がある その核心から血潮したたる         夢野久作「猟奇歌」』

 己の気の緩みを怨んだ時は既に後悔の始まり。

 漆黒の異形が、弾丸のように突進する。

 どすん、と鈍い音。音と同時に翼の身体は吹き飛ばされ、壁に叩きつけられる。脆くなった木製の壁は崩れ、舞い上がる埃が少女の姿を隠した。

「………出やがったな。」

 不意打ちを喰らった翼を気にかけることなく、朔は酷く醒めた声でそう言った。埃の舞う廊下には、異形の影が微かに見えるのみ。

「“壌”………」

 吹き飛ばされた翼に駆け寄ろうとした百合子であったが、異形の目星がついた途端血が凍る。

 強敵と部類される禍凶、壌。

 身を強張らせた百合子から、敵の程度が朔にも理解できた。しかし今、朔の心は恐怖に駆られる事はなく、ただひたすらに醒めている。

「………殺してやる」

 深紅の目に狂気は映る事はなく、ただ純然なる殺意がそこに満ちていた。



 風切り音が脇にいる氷雨の耳にまで届く。“それ”はよく撓り、周囲の屑をまとめて打ち据えた。

「ひゃっ、はっ、はぁっーっ!!」

“それ”を振るうい、高く嗤うのは大地。

 少年の振るう鉄製警棒は鉄としての硬度はそのままに、蛇の様にくねる鞭となっている。

 琥武亜乃皇子の力とはそれ即ち大地の力。それは使い方次第で鉄という鉱物を意のままに操る事も可能となる。

 鉄の鞭となった警棒に打たれた屑たちは、腐敗臭を放ちながら溶ける様に消滅してゆく。

「おっし、今日も快調っ。」

 最後の一振りが氷雨の鼻先を掠めたが、大地は悪びれる様子もなく巫山戯た調子だ。

「………」

 喧嘩を売られていることは氷雨にも理解できたが、敵を前に仲違いをする程浅はかな人間ではない。

 大地を一瞥すると、氷雨は氷刀を構えると姿勢を低くし一気に駆ける。

 飛び交う屑を切り刻み、目的の異形に目を向ける。

 四つん這いのそれは獣の身体に、巨大な肉食獣の口。顔の中心に鎮座する巨大な目は血走り、牙が覗く口の端から汚らしい色の汁が零れている。

 禍凶、芥。

 氷雨は頭上を旋回していた屑を振り下ろした刀で切り裂くと、返す刀で芥に斬りかかる。

 しかし四つ足の異形は俊敏な動きで飛び上がり、その暫撃を躱す。

 高く疾く飛び上がった芥は天井すれすれで身を翻し、天井を蹴って大地へ飛び掛かる。

「ちっ!!」

 大地は舌を鳴らすと後ろへ飛ぶ。と同時に手にした鞭を振り上げた。

 しかし鞭の様に撓るとはいえ元は鉄。その重さで振り上がりが遅い。

 鉄の鞭は敵を打ち据えることなく宙を斬り、無事着地した芥はその口を一杯まで開いて大地に噛み付こうとした。鞭を振り上げたままで無防備な大地。

 しかし芥は大地へ向けてではなく横へ飛ぶ。今当に芥が避けた場に氷が突き刺さった。 背後から氷雨が撃った釘氷。しかし発動に所謂溜めがいるため連射が出来ず、躱した芥を追撃するには至らない。

「近接した相手に、不用意に振るな!!」

 隙をついて噛み付こうとした最後の屑を切り伏せながら氷雨が叫ぶ。

「うるせえ、解ってるよ!!」

 大地が言った刹那、鞭は形を変え、先端に重心を持つハンマーとなった。

「喰らえ!!」

 武器の重さに任せ力一杯に振り下ろす。

 しかし芥は素早くそれを躱すと壁へ飛び、壁を蹴る。再び当てる事の叶わなかった鉄の塊は、床を割って突き刺さっていた。

 勢いを付けた身体が、大地に向けて襲いかかる。

「くあっ!!」

 幸い距離が近すぎた事で、芥が口を開く余裕がなかった事から噛みつかれはしなかったが、まだ幼い少年の身体はその突進で吹き飛ばされる。

 吹き飛ばされた大地は床に叩きつけられ、腐った床板を割って身体が床下にまで落ちてしまったようだ。

 重い一撃で負傷した大地に、三度芥が向かう。と思った氷雨の目には、意外にも蹲る異形が映る。

「なるほど………」

 思わず口から漏れた。床に突き刺さったハンマーは、柄の部分が天板の様になっている。 芥の突進による衝撃を、一瞬のうちに警棒の形を変える事で最小限に止めたのだ。

 大した奴だ。そんな事を思いながらまだ起きあがらない大地の方を見ると、穴から咳き込む音が聞こえる。

 どうやら無事の様だ。生きている事に安堵し、そして屠るべき相手に視線を戻した。

 さて。

「こいつはしぶといからな………動きを止めて、大技で始末しよう。」

 身体を揺らしたまま立ち上がれない芥に近付くと、氷雨はその胴に深々と氷の剣を突き刺した。劈く様な悲鳴が響き、傷口から紫色の体液が溢れてくる。

 しかし腹を刺しただけでは致命傷にはまだ届かないようで、しぶとく芥は身体を動かす。身体が二つに裂けてもなお襲いかかって来そうな、見開かれた隻眼。

 空恐ろしい感を受け、刀一本では心許なく感じられる。氷雨は両の手から氷刀を作ると、一本を頭に、一本を腰へ刺す。

 耳を塞ぎたくなる様な悲鳴が再度響き、濃厚な腐敗臭が傷口から漂い、あふれ出した血流は床一面を染めてゆく。

 身体に三本も凶器を突き刺されていながら、まだ藻掻く芥。例え相手が異形の生き物であろうと、このように残虐な光景は氷雨の好むところではなかった。

「今、楽にしてやる………」

 氷雨は静かに目を瞑ると、呼吸を落ち着かせ、手を翳した。

 小さな小さな、水の粒子達に働きかけ、ようとした時だった。

「待てよ………」

 何時の間にか立ち上がった大地が、まだ穴から抜け出さぬまま氷雨を止める。

「痛い目あったの俺だぜ、止めは俺に刺させろよ。」

 止めを誰が刺すかなど氷雨にとっては大した問題ではないが、大地にとってはそうではないらしい。憎悪に満ちた目で、邪魔するなら殺すと言いたげな顔であった。

「………好きにしろ。」

 本来なら止めたいところであったが、先程のやり取りもある事から止める事が憚られた。氷雨は床に突き刺された芥から一歩引く。

「細切れにしてやる………」

 その瞬間、大地の目は見開かれた。琥武亜乃皇子の力が大きく解放される。

 それは大地の足から地にいたり、土を揺り動かす。

 大地も未だ『収』の業までしか修めていないものの、地面に身体の一部が触れてさえいれば能力の発動に何ら問題はない。その意味では水蒸気を集めなければならない氷雨よりも使い勝手のいい力とも言える。

「くたばれっ!!」

 力によって揺るがされた土が、芥のいる床の下から一瞬にして隆起する。その数は一つでなく、鋭い刃を象る土が異形の姿を言葉通り切り刻んだ。

 腐敗臭のする体液が勢いよく飛び散る。

「………終わったな。」

 氷雨が呟くと、どん、と何かが落ちる音が上の階から響いた。

「上ではまだやり合ってるみたいだな。」

 服に付いた汚れを叩きながら、空いた穴からようやく廊下に上がる大地。床に刺さったままのハンマーを警棒に戻すと、爪を噛む。

「上に行こう、この階にはもう禍凶はいなそうだ。」

 氷雨もまた、床に刺した氷刀のうち一本を抜く。同時に二本は溶けて消えた。氷雨がそれらの力を解いた為だ。

「ああ、まだ遊び足りないからな………」

 爪を噛んだまま、大地は口の端を少しだけ吊り上げて嗤った。



 心意六合拳には基本的に構えはない。無形を要求する。形式を問わず相手を殲滅する事を第一としている為であるが、別に戦いとは一つとして同じものではなく、その時々に最も相応しい動作をすべきとする実践に基づいた思想の反映でもある。

 しかしどちらにしても、この拳が実践重視の超攻撃的拳法である事に変わりはない。

「で、数で負けてるわけですが、どうしますかね。」

 口調はあくまでいつも通りな真由であるが、その身体からは迸る様な殺気が濃厚に立ち上っている。それは傍らに立つ燎士も例外でない。

「まずは初撃を躱してカウンター。殺せればそこで殺す。後は、弱った奴から各個撃破だ。」

 あくまで定石通りの戦略。しかし王道こそ覇道である事もまた事実。真由は大きく頷いた。

「じゃあ、向こうさんがかかってくるまではこのまんまッスね。」

 語調は笑っている様にも聞こえるが、顔は真剣そのものである。殺気は決して薄まらず、その濃度をじわりじわりと濃くしているかの様だった。

 三匹の芥は、二人の殺気に気圧されてかある距離からは近付こうとしない。それは必殺の間合いである事が、異形のものにも解るからであろうか。

 禍凶たちは威嚇する様に低く唸ったり、今にも飛び掛かる様な仕草を見せるが、燎士と真由の二人は動じず微動だにしない。

 ただただ濃密な殺気だけが、二人の身体から放たれているだけ。あくまで静かだった。

 一階から叫び声や振動音が聞こえてくる。氷雨と大地が戦っていると思われたが、それでも二人の気は少しも揺るがない。

 対して、芥の方は痺れを切らし始めているかの様でもあった。

 間合いぎりぎりの所で唸ってはいるものの、それはまるで飼い主に叱られた飼い犬の様な惨めさが窺える。

 およそ戦いの場において、ただ対峙し続けるのは見た目以上に精神を、そして肉体を疲弊させる。戦いの火花が散る前に、既に異形たちの心は挫かれたのだ。

 二人に求められるのは最早、最大効率で殲滅させる事だけである。

 咆吼一閃。ついに緊張の糸が切れた一匹の芥が真由に飛び掛かる。それにつられる様にしてもう一匹は燎士に向けて突進した。

 突然の攻撃ではあったが、心理戦を征した者には余裕がある。あくまで冷静に初撃を躱す。

「かぁーーーーーっ!!」

 雷声。それは内気を固め外へ発する為のものであり、威力と技法を高める。燎士は低い体勢で突っ込んできた芥の腹を蹴り上げる。

 蹴ると共に前に踏み出し、浮いた身体に押しつける様に炎を纏う拳を入れる。さらに肘、それを引くと共に更に一歩踏み出す。そして再度蹴り。

 流れる様な連続技。それはまだ終わらない。

 蹴り上げた勢いで両手を挙げる。そして踏み込み。全体重、そして加速度を加えたそれは床を破り、建物全体を揺らすかの様な衝撃が走る。

 振り下ろされた両の掌。それは異形の背を打ち、床に勢いよく叩きつけた。

 全てが綺麗に入り、床に叩きつけられた芥には火が移り、やがて溶けて消えていった。

 同じ時、真由は飛び掛かってきた芥を躱したが、もう一匹の芥が更に襲いかかって来ていた。かなり高く飛んでいる巨大な口が目の前にあった。

「はぁっ!!」

 しかし如何に攻められようと心意六合拳の極意は攻め。真由は臆することなく利き手を突き出す。蛇を模した突き。電撃を纏ったそれが喉に入り、吹き飛んだ芥は痺れた様でびくびくと震えている。

 追撃には距離が出来てしまった為真由は一気にケリを付ける事は諦め、もう一匹の芥に向き直る。

 だがこの時は芥の方が早かった。地面すれすれを駆け、口を開く。

 足首を狙っているのは明白だった。しかし不用意に躱せば着地を狙われる。ならば、いっそ。

 真由は右足だけ上げた。左足は芥に噛まれる。鋭い牙が肉に突き刺ささる感触。自らが司る電流の様な痛み。

「くっうぅっ、あぁぁっ!!」

 しかし、あくまで勝つには攻撃を要する。痛みの声を雷声に換え、真由は軸足に噛み付く異形の頭めがけて右足を踏み降ろす。

 ぐしゃ、と耳障りな音と共に二匹目の芥が頭から消えていった。

「つうぅ………噛まれたッス。」

 三匹中二匹を片付け、残る一匹は感電で戦闘不能。ようやく緊張を解いた真由は、泣きそうな顔で左足をさする。

「ああ、まあ致命傷で無くて良かった。………あいつは俺が片付ける。」

 一方あくまで殺気を放ち続ける燎士。その時丁度、階段を駆け上がる音がした。

「お、お二人さん。下は終わったスか?」

 一階の禍凶を殲滅させた氷雨と大地であった。

「なんだ、もう終わりかよ。つまんねぇな。」

 警棒を弄ぶ大地は気にも留めなかったが、一方の氷雨はすぐに真由の足に気付く。

「飛世、やられたのは足だけか?」

「ちょっと、躱しきれなくて。でも、まぁ大したこと無いッス。」

 氷雨は上を見る。三階でも戦闘が始まっている様で、足音が絶え間なく響いている。

「軽傷でも甘く見るな、弓削に薬草を貰った方がいい。それに恐らく強敵は三階だ。早く加勢に行こう。」

 氷雨の言葉に燎士は頷く。

「ああ、これで終わりだ。」

 まだ痺れから解放されず立ち上がる事すら出来ない芥、その前に立つ。そして腕に纏われた炎は一気に巨大化した。

 燎士はその拳を、無言のまま禍凶の頭に殴りつけた。

「相変わらず、すげぇ火だな。」

 爪を噛みながら大地が呟く。

 最後の芥は溶ける間もなく、紅蓮の炎に焼き尽くされ、床に影が残るだけだった。

「さぁ、サクの加勢に行こ………」

 燎士が言いかけた瞬間。

「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 余りにも悲痛な悲鳴が、三階から響いた。






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