第五章 虚ろなる神々の器
Hollow gods' vessel
「付き従う。忠誠を誓う。その価値があるか。」




 捨てられた洋館、山奥の廃墟。

 明治、若しくは大正、昭和。

 いつ出来たとも知れぬそれにはもう、古き良き時代の面影はない。

 差し込む月の青白さは幻妖。

 屋根よりもその背を伸ばした杉たちが、夜風に揺れてざわめいた。

 人気のない闇に、音が染み入るように広がって行く。

 元は白亜の館も、緑に侵され汚らしいく苔生した濁った壁色を見せる。すえた黴と、蓄積した埃の混じり合った臭い。木材の腐った臭いに混じり鼻孔に届く。

 いい気持ちであるはずがない。

 岩城市は元々都心から近い“田舎”だっため、街中離れた山奥に結核病患者のための施設が点在していた。

 ここもその一つだ。

 時代の流れか、必要とされなくなったそれらの建造物は、幾つかこうして建て壊されることなくひっそりと残っている。

 当時の流行を取り入れた建物は、今やその美しさを伝えることはなく、時代遅れの不気味な洋館として佇むだけであるが。

 本来なら今や訪れる人などないその場所に、黒塗りの高級車が二台と月光を浴びて光沢を放つバイクが三台。

 それぞれのエンジンは、まだ運動を止めてからあまり時間が過ぎていないことを示すように熱い。

 月光に照らされ伸びる影は八つ。

 男が五人に、女が三人。

「全員居るな。」

 しがれた声が闇に響く。

 白髪だけになった髪は薄く、額の広さがその生きた長さを示す老人が呟いた。

 既に老いた身体ながらも、その目だけはぎらぎらと精気が満ちている。

 萌葱色の簡素な着物に身を包んだ老人、琴里児雷也である。

「ここから先はお主等だけが征け。儂等はここで待つ。」

 老人は顎を動かし、車の運転席に残る二人を指した。

 彼等は運び手。同じ搦手なれど、器達の足下にすら及ばぬ者達。

 名も知らぬ、王の下僕等。

「今宵は御子を除いた総ての器たちの揃いし日。各々、汝等が王が為、この良き日を宴とせよ。」

 ごう、と風はその刹那強く吹いた。

 黒い髪は風に靡き、紅い目は粛と煌めく。


 窓から見える夜の海は、結局どこの海だろうと同じ顔を見せていた。

 蠢く悪意、若しくは幻惑の死。

 悪夢のメタファー。

 柔らかな程度にその明るさを調節された一室、所謂高層ビルの角部屋から朔は眼下の海を見下ろしていた。

 東京は汐留。

 東京湾を臨む臨海都市の高級ホテル、その最上階からは街の灯も闇も良く見えた。

 ホテルのスウィートに泊まるのは生まれて初めての経験だったが、別段朔の心が躍ることはない。

 附瞰に感慨も湧かぬまま、ぼんやりと眺める行為を続けるだけ。

 思考は白濁し、沈降して行くだけだった。


「今日は疲れただろう、ホテルは準備しておいた、そこで休み給え。」

 一馬は熱り立った朔の轟気に気圧されることなく、飄々と、事務的に言の葉を紡ぐ。

「・・・。」

 思わず立ち上がった朔も、二の句が続かず拳を握るだけ。一馬はそんな朔にはお構いなしか、内ポケットから取り出した携帯で何処ぞの誰かに連絡を入れる。

「ホテルまで送ろう、すぐ来る。」

 元の位置に携帯を戻しながら、ぽん、と朔の肩に手を置いた。

「・・・触るな。」

 吐き捨てるように、短い発音。

 反射的に手を引っ込めると、一馬はため息をするようなジェスチャーを見せた。

「気が立っているね・・・まぁ当然か。」

 朔は答えない。

「裏切られた気分は、最悪だろう。」

「五月蠅い。それに、俺は別に裏切られた訳じゃない。」

「ああ、そうだね。単にいいように扱われていた、だけだね。」

 一馬の一言にかっと朔が牙を向けようとした時、一馬は凛とした声で一言。

「私たちは、君の、君だけの味方だ。」

 意思の込められた双眼に貫かれ、身体が緊張するのを朔は感じた。

「そして、だ。」

 一馬は朔に背を向けると、背中越しにその言葉を放つ。

「私たちは、君の望むものを与えられる。」


「宴。宴、ね。はは、面白いねそれ。いいぜ、やってやるよ。」

 児雷也の言葉に一番先に反応を示したのは、小柄な少年だった。

 親指の爪を噛む仕草といい、まだ幼さが抜けきっていない顔。

 歳柄の所為か中性的な顔つきで、黒目勝ちな目が特徴的だ。

 栗色の髪は短く、それを覆うようにキャップを斜めに被っている。

 ぶかぶかの黄色いパーカーに、ハーフパンツ。そして有名ブランドのスニカーという格好。

 普通といえば普通だが、どことなくセンスの良さが伺えるファッション。

 それは彼がバンドマンということが、少しは起因しているのかも知れない。

「今日は俺の十五歳の誕生日だ。丁度いいぜ、楽しくやるだけだ。」

 少年、西本大地はくくく、と笑いを堪えるようにして、一歩前に出た。

「やってやるよ、オ・ウ・サ・マ。なんてな、サク。」

 明らかに年上であろう紅い目の男に、少年は媚びる様子を微塵も見せず、巫山戯た調子で声をかける。

 彼はいつもそんな調子だ。

 誰に対しても敬語を使わない。 

 誰もが自分以上の存在ではないと、年端もいかぬ身ながら信じて疑わないからだ。

 地元のハコではそこそこ名の通ったバンド、jack the stroeberyのギター兼ヴォーカル。

 そして、豊穣たる大地の神、琥武亜乃皇子の器。

 狭い世界の中で、名声と力を得た少年が生意気になるのも無理もない事。

 誰一人その少年を咎める者はいない。

 いや、否。

 少年は誰に咎められることなく黙った。

 紅い目の男の、静かな闇に気圧されて。


「望むもの?」

 黒髪が目にかかるのを直す仕草をしながらの問い。

 朔の表情は鬱屈そのものだ。

 紅い瞳には僅かながら殺意すら隠る。

「そう怖い顔をしてくれるな。悪い話じゃないはずだよ。」

 くすくすと、まるで悪戯を親に見つかった子どものような無邪気な笑い。

 自らに臆すことなく接してくるこの一馬という男に朔は些か錯乱させられていた。

 部下である二人は自分に媚びるようにしてきたのに、この男はなんだ。

 まるで友のような口ぶり、振る舞い。

 断言できる。朔の側に、そんな接し方を出来るものなど数少ない。

 親戚であり長年の友である燎士、百合子。

 臆さないというだけを見れば翼、例外といえるかも知れないが、真由。

 後は妹の輝更に両親くらい。

 結局、闇の現の外に友はいない。

 何故か。

 答えは火を見るより明らか。

 蒼白き肌に紅き瞳。その容貌は人を遠ざける。

 無口で陰鬱な心。その内は人を近づけない。

 滲み出でる狂気がその極み。

 人を寄せ付けない雰囲気を、その全身から常に発しているのが朔という男だ。

 時折女子が勘違いして近寄ってくることもあるが、睨まれてすごすご引き返して行くのがいつもの事。

 彼の闇を知らない者に、彼は心を開かない。

 その意味では、一馬は心を開いてもいい対象に見える。

 しかし違う。朔の心の壁は厚く堅い。

 初見に馴染める程、彼の心は広くない。

 言ってしまえば、極度の人見知りなのだ。

 あからさまな警戒に、近付いてきた者を退ける心の壁。

 今まで誰も、会ってその日になど越えられなかった境界。

 それを、この一馬という男は無理矢理こじ開けてきた。

 人の内面に土足で入り込む行為。不快でないはずがない。

 しかしそれは朔にとって初めての感覚だった。

 原因の解らない感情としてでしか朔には感じ得ない。

 故に混乱は深まりより絡まるだけ。顔を顰めるしかない。

「そう、きっと君も気に入ってくれる・・・」

 一馬は顔を伏せ、声もなく嗤うだけだった。


 黙った大地に助け船を出すように、一人の少女が歩み出た。

「輝更ちゃんはいないけど、それ以外が揃うなんて今日は確かに記念日っすよね。宴・・・まぁ派手にやりますよ。ね?サクさん。」

 脱色で金色になった髪を、針金のように天に突き立てた髪型をした少女。

 デニム地のつなぎのファスナーを胸元まで開けており、ただ一言FUCKと書かれた黄色いTシャツがそこから覗いている。

 飛世真由、止められたバイクのうち一台の持ち主でもある。

 車体の大きな二台の大型車に挟まれた真由の一台は黄色いボディのAPE、49ccの原付。

 朔や燎士と同じく二輪研究会のメンバーで、それはバイクチーム“GUREN”の一員である事を意味するが、彼女のマシンはキャノンボールスタイルで走るチームには向いていない。しかし彼女はただ走ること自体を楽しんでいる節があり、順位など気にすることはなかった。

 そんな彼女もまた、虚ろなる神々の器の一人。稲光る雷の神燵臣の器。

 何事にも拘らないのが彼女の信条なのか、朔が目覚める前も後も彼女の朔に対する接し方は変わらない。事実朔はそんな真由の態度に好感を抱いていたし、それを真由も理解していた。

 だから自分が場を収めよう、そう判断して前に出たわけだが、朔の反応は予想とは異なるものだった。

「・・・・・・」

 黙ったまま、静かな威圧感を漂わせるだけの朔。

 いつもとは彼が違うことを、ようやく真由は気付くのだった。


「黙ってないで何か言ったら?雰囲気悪いわ。」

 重苦しい空気を切り裂くような辛辣な言葉。翼は朔を睨み付けるようにして言った。

 黒髪のおかっぱ頭、広い額とフレームのない眼鏡が彼女の知的さに拍車をかける。服装はいたってシンプル、白いYシャツに細身の黒いパンツ。ノンベルトで、サスペンダーをしていた。

 垣根翼、去りゆく風の神、惟琶王の器。

 風は言葉、そして刃。風は辛辣な彼女に相応しい。

 人気のない山奥に吹く夜風を纏うように、朔の前に立って睨み付ける。

 少し顎を引いた朔の表情は、その長い前髪の所為もあってよく見えない。しかし紅い目は、月光を受けて血のように光っているのは解る。

「ちょっと、何とか言いなさいよ。」

 王たる朔にそんな言い分をするものの、内心翼は目の前の男が空恐ろしく感じられた。

 朔に秘められた狂気と暴力を知っている分、やたら静かにしているのが異様で背中が寒くなる。首筋の毛が立ちそうだった。

「・・・・・・皆に、聞いておきたいことがある。」

 闇夜に染み入るように静かながら、身体の表面を這い回るように湿った声。冷たさが胸を針と刺す。

「え・・・」

 決して聞こえなかった訳ではない。ただ挑発するような自分の言い方に、食って掛かってこない朔に翼は驚いた。

 違う、いつもとは違う。言葉に詰まるような違和感。

 翼はじっとりと汗をかいた手を強く握った。

 それが目の前の男に対する、畏怖の念だと思う内なる自分を押し殺しながら。


  無意味に外を眺めることにも倦んできた朔は、スプリングの適度に効いたベットにその身を沈ませた。

 無機質な天井が網膜に写る。

「俺の、望むもの・・・」

 右手を挙げて、五指を開く。そして拳を作った。

 虚しく虚空を掴むだけの仕草。

 特に意味があった行為ではない。ただ、何か掴めないかと・・・

 静かに目を瞑り、そして開く。

 目に写るものは変わらない。何も、何一つたりとも。

 静かに身体を起こし、朔は枕元にある備え付けの電話に手を伸ばした。

 日頃押し慣れていない市外局番から、自宅への番号をプッシュする。

 機械的な電子音が何度か繰り返された後、聞き慣れた声を聞く。

「もしもし?」

「もしもし・・・輝更か?」

 思わず口が緩んだことに自分でも気付く。

 何故こんなにも、声を聞いただけで・・・

 妹の・・・

「もしもし?お兄ちゃん?どうしたの?」

「いや・・・声が、聞きたくて、な・・・」

 今朝会った。家を出て一日すら経っていない、しかし輝更の声は酷く懐かしく思え、自然とそんな言葉をついていた。

「あはは、なにそれ。ホームシック?」

「まさか、そんなんじゃない。・・・そういえば、こんな時間まで起きてるなんて珍しいな。」

 横目で見た時計は午後の十時半を回っている。まだ十歳の少女は、いつもなら寝ていても不思議はない。

「お父さんと、お母さんはさっき出かけたみたい・・・ドアの閉まる音で目が覚めたから・・・」

「狩りに行ったか。」

 朔の言葉に、輝更は小さな声でうんと言った。

 少女はまだ、自分たちの宿世を受け入れ切れていない。いくら人に仇なすものとはいえ、それを両親が殺しに行くのは心苦しげな様子だった。

 御鏡輝更。朔の実妹にして、光の御子。

 旭光の神、伊於呂子の器。

 そして朔の求める者、禁忌を破り契りを交わした相手。

「・・・不安か?」

 目覚めるのがあまりに早かったということで、輝更はまだ禍凶の駆逐に参加させられていない。一家全員が搦手の御鏡家の中で、禍凶狩りの夜も唯一家に残される。

「うん・・・不安だよ。待ってるだけって、辛いね・・・」

 まだ幼い少女は、少女なりの戦いをしている。孤独、不安、負の感情と。

 果たして自分は?朔は自問する。

 自分は戦っているか?それとも殺戮を楽しんでいるだけか?

 自分は何の為に、誰の為に、何を求めて・・・

『君は、何のために戦うんだい?』

 頭の中を木霊する言葉。自分は・・・

「お兄ちゃん・・・?」

 電話越しに、輝更の声が聞こえた。


「・・・・・・皆に、聞いておきたいことがある。」

 そんな朔の言葉に、一同黙ってじっと朔を見る。

 次の言葉を待つ姿勢、そう、今朔は確実に王たる威厳をその身に秘めてる。

 朔を囲むように立つ六人の器達は、まるで王に忠誠を誓った騎士のように背筋を伸ばしていた。

「お前等は、何の為に戦うんだ?何の為に戦ってる?」

 それは意外な質問だった。互いに顔を見合わせる六人の器たち。

 静かな闇に、小さなざわめきが起こる。

「聞いておきたい。でも言いたくない奴はいい、ただの好奇心だ。」

 周囲の驚きは気にする様子もなく、淡々と朔は言う。

 何度目かの沈黙。

「突然どうしたんだ?」

 切り出したのは燎士、朔の一つ上の従兄弟。

 短く刈り込まれた坊主頭は明るいオレンジ、顎には無精髭を蓄えている。

 三台のバイクのうち、紅いCBR1000RR。炎のペイントが施された998ccは朔のXL883を越えて三台の中で最大排気量を誇る。それは琴里燎士という男によく似合っていた。

 体付きは筋肉隆々とした巨躯、首筋には炎を模した入れ墨が入れられている。体付きもさることながら彫りの深い顔は厳つく、その存在感は大きい。

 不滅なる炎の神、不悪辺之皇女の器。朔との付き合いは長い分、朔からも、六人からの信頼も厚い男。朔が長なら、器たちにとって燎士が副長であった。

 無口で無骨な男であるが、信頼に値するからだ。

「・・・理由は、特にない。ただ・・・」

 朔は面を上げ、虚空を仰ぐ。人里離れた山の夜空は、普段見るものより闇が濃かった。

 朔は空を見たままで、誰のことも見ていない。

 風に靡く黒髪。闇に溶ける黒服。ただ蒼い白い肌だけが、夜に混じるのを拒否している。 曖昧な境界でありながら、確固たる存在感。

「一応俺が王なんだろ・・・?聞いておくのも、悪くない・・・」

 そんな朔の言葉に一瞬燎士は顔を惚けさせた。そしてはにかむように笑う。

 冥王としての意識が芽生えてきた、そんな風に思えたからだ。

「・・・俺が戦うのは、お前を守る為だよ・・・」 

 小さく放たれた言葉は夜風に掻き消される。

 朔の目はひたすら虚空の闇を見つめていた。


「お兄ちゃん?どうしたの・・・?」

 その声に、自分の意識が途切れていたことに気付く。

 深く考え過ぎだ・・・らしくない・・・

 ふっ、と自嘲げに笑い、輝更の声に答えた。

「大丈夫、聞こえてるよ・・・ちょっと、考え事してて、な。」

 力がある。

 自分には力がある。

 だから?

 なら振るえばいい。

 その力を。

 望むままに。

 望みの為に。

 何の為の力だ?

 その為の力だ。

 望むまま、望みのまま。

「輝更・・・俺と・・・」

 伝えようとした言葉が、何故か喉に支え出てこない。

「なに?聞こえない・・・」

「いや、いい・・・早く寝ろよ、親父達なら大丈夫だ・・・」

 今、何も今言う必要はない。朔はそう考え、言いかけた言葉を飲み込んだ。

「・・・うん・・・」

「声が聞けて良かった・・・お休み、輝更。」

「うん、・・・お休みなさい。」

 最後に小さくお休みと呟いて、朔は受話器を下ろした。

 その目はいつもと変わらず紅かったが、いつもと異なる光を秘めていた。

 決意という光だ。


「まさか御鏡からそんな言葉を聞けるとは、な。正直に言わせてもらえば驚いたな。」

 淡々と良く響く細い声で言ったのは織部氷雨。流れ行く水の神、沙那姫の器。

 くすんだ銀色の髪に、銀縁の眼鏡。レンズの奥には切れ長の双眼が涼しげに鎮座している。

 青のナイロンシャツと細身の黒いパンツ。胸元には銀色のロザリオが月明かりに照らされ微かに揺らめいていた。

「私が戦うのは正義の為だ。」

 正義。形のないものを指す言葉。

 しかしその言葉を放つ氷雨の目に一切の迷いはなく、言葉の持つ重さも責任も全て受け入れているようにも見えた。

「力ある者が己の使命を果たす。禍凶という悪意を討つ。弱き人々を守る…」

 一旦そこで彼は目を伏した。悲しみが微かに彼の影に纏う。

 細長い五指を強く握り、腕の血管が浮き出る。唇を噛んだ。脳裏に浮かぶ消せない過去。

 しかし氷雨は再び意思の光宿る双眼を見せる。

「全て正義の為だ。」

 より堅牢さを増した声で。

 やがてその声は霧散し、夜露と消えるだろう。

 想いだけを残して。


  五月四日、午後四時。

 適当に東京でブティックを回った朔は、来た時と同じように特急に乗る為上野の駅にいた。

「本当に電車でよろしいのですか?私どもがお送り致します…」

 言いかけた瑞樹の言葉を朔は遮った。

「いや、いい。一人にさせてくれ。」

 軽くあしらうような声。しかし口をついた言葉は正直な気持ちだった。

「…そうおっしゃられるなら…」

 庇は瑞樹の一歩後ろで姿勢良く立っている。

 朔は二人に背を向けると、軽く手を振って朔は改札へ向かう。

 独りでいることを好む朔にとって、車の運転役とはいえ二人に一日中つきまとわれ正直うんざりしていた。精神的疲労が顔に出る。

 まだ暫く発車には時間がある特急に乗り込み、指定席に深く座り込むと一つ、大きな溜息を吐いた。

 そして意識は静かに眠りへと落ちてゆく…

 ・・・・・・・

 ・・・・・・・・・・・・・・

 ・・・・・・・・・・・・・・

 夢を見た。

 深い闇。その深淵に墜ちてゆく。

 緩やかな墜落感。墜ちてゆく程に、その闇は濃さを増す。

 やがて暗黒としか言いようのない程まで暗く昏い闇に辿り着く。

 そこで朔は出会う。

 鎖で躯中を縛り付けられた、“闇”そのもの。

 最も濃き闇の中で蠢く真の闇。

 知っている・・・朔は思う。

 いつか出会った存在。

 蠢く闇の声ならざる声は、朔の身体に染みこむように響く。

『御子・・・』

『御子を・・・』

 嗚呼、解ってる。解ってるよ・・・

 本当は、俺も解ってるんだ・・・

 でも、もう少し、もう少しだけ・・・

 俺に『人間』でいさせてくれないか・・・

 闇はその姿を歪ませる。

 ・・・もう少しだけ・・・待ってくれ・・・

 もう少しだけ・・・

 ・・・・・・・・・・・・・・

 ・・・・・・・・・・・・・・

 ・・・・・・

 目が覚めた。

 気付いた時には見慣れた街が窓から見える。

 まだ眠気の覚めやらぬ目を擦りながら、朔は緩慢な動きで下車の準備をすることにした。

 何を思うでもなく、何も思わないわけでもない。


「行ったわね・・・・・・」

「ええ。すぐに出ますか?流石に特急には追いつけませんが。」

 朔の背を見送った二人の内調は、早速仕事の話を始める。

「勿論よ。例え彼になんと言われようと、私たちは自分たちの仕事をするだけ。」 

 くるりと向きを変えると、瑞樹は大股で歩み始める。

 はい、と庇の声が背中に聞こえる。

 そう、自分は自分の仕事をするだけ。

 最後に笑う為に。


「ところで・・・」

 朔を呼び止めた一馬は再び煙草を取り出し、火を付ける。煙を吐き出して次の句を紡いだ。

「君は、何のために戦うんだい?」

 予想外の質問に思わず『はぁ?』と言ってしまう朔。しかし一馬の目は真剣そのもので朔の気も少し引き締まる。

「私にはこの仕事をする理由がある。君にとっては取るに足らないような理由かも知れないけどね。」

 語尾は少し自嘲気味だった。ははっと力無い渇いた笑いで肩を揺らす。

 そしてふうと一息つくと、再び一馬は同じ問いを朔に投げかける。

「君は、何のために戦うんだい?」

 何のため。一つの言葉が頭を掠めて飛んでいった。

 そういえば、自分は何故戦っているのだろう。

 王や何だと周りが五月蠅いから?

 違う。

 責任感?

 そんなもの知らない。

 じゃあ、スリル?

 ・・・・・・これが一番しっくり来るか。

 殺す為に、戦う。

 氷雨の言葉が、今度は浮かぶ。

『殺すために戦うのか?』

 あの顔・・・あの目・・・まるで自分を蔑むような・・・

『もしそうなら、お前は哀れだよ・・・』

 感情が急に沸点に達する。

 哀れ?俺が?巫山戯るな巫山戯るな巫山戯るな巫山戯るな巫山戯るな巫山戯るな!

 誰が・・・

「答えにくいかい?」

 怒りに顔を鬼の形相にした朔に、全く臆することのない一馬。

「五月蠅い・・・」

 殺意すら隠った視線で朔は一馬を穿つ。

 しかし一馬はいたって普通の様子で、

「理由を提供しようか?」

 と言った。更に朔が物言う前に、

「輝更ちゃんの為、というのは、どうだい?」

 とも。朔の目が正気を取り戻す。

「正確に言えば、君と輝更ちゃんの為、かな。悪くないだろ?」


 家に着いた朔を待っていたのは、家族と一つの知らせだった。

『輝更を除く器全員は、明日下記の場所に集合すること。時間は、零時。』

 筆で書き綴られたたった一行の文を読み終えると、朔はそれを破り捨てた。

 輝更に笑いかける、そんな余裕もなかった。 


 氷雨の後に続いて物言う者はいなかった。

 翼が横目で、花々の刺繍の美しい着物を着た少女を見る。

 腰まで届く艶のある黒髪。すらりとした身体は華奢で、肌は透き通るように白い。

 生えそろった睫は長く、切れ長の目によくあっていた。

 凛とした美しさをもつ少女、弓削百合子。

 繁茂する樹木の神、世宮螺の器。

 その黒真珠のような目を伏している。

 か細い指を、胸の前で組んでいた。

 小さく震えているように、翼には見えた。

 視線を朔に移す。朔は百合子の方を全く見ようとはしていなかった。

 二人の間には、深い溝があるのを改めて思い知らされる。

 酷く、惨めな気持ちだった。

 そんな翼の心を知ってか知らずか、朔は長い前髪を払うと歩み出した。

「言いたくないなら、いいさ。・・・行くぞ・・・」

 握り締めた両の拳を振りながら歩く朔の足音が、闇夜に浸みる。

 六人の器たちは、押し黙ったまま王に続く。

 七つの影が、廃屋に消えてゆく。

 それぞれの背を見送って、児雷也は天を仰いだ。

 聞く者のいないそこで、老人は忌々しげに呟く。

「何か吹き込まれおったな・・・厄介、じゃな・・・」

 月はいつしか雲に隠れ、細々と揺らめいていた。




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