「そうさ・・・」
広げた手を組み合わせ、顔を下に向けながら上目遣いに朔を見る。
「嗚流津乃を滅ぼす、というね・・・」
「君も一服、どうだい?」
ソファーに勧められるまま座った朔に、一馬は調度用の大きなライターを差し出す。
朔は一馬から目を逸らすことなく、ポシェットからカンケースを取り出した。
短い煙草を取り出し、銜える。
一馬がそれに無言で火をつけた。
深く息を吸い込み、フィルター越しの空気を肺へ送り込む。
煙はゆらゆらと昇り、やがて行き場を無くして霧散していった。
「HOPE、か。重いものを吸っているね。」
灰を落とした朔に一馬が懐を探りながら言う。
「まぁ、な。重いやつがいい、煙草は。重くなきゃ意味がないからな。」
指に煙草を挟み、手と足を同時に組ませながら答える。
そんな朔の台詞に一馬は口の端を上げて、懐から紙製の箱を出した。
鳥の絵が描かれたそれにはPEACEと銘が打ってある。
煙草だ。
「重いのがお好みならこれはどうだい?タール21mlだ。」
一馬は箱を上下させ一本、朔の方に差し出す。
朔は黙って自らが吸っていたものの火を消すと、受け取ったものを銜える。
先程と同じように一馬がそれに火をつけた。
いつもの調子で、深く息を吸う。
「げほっ、げっほげほっ!!」
想像以上の圧力が一気に灰にのし掛かる。
鳩尾を不意に殴られたような不快感、そして味の辛さ。
思わずすぐに火を消してしまった。
そんな朔の姿を見て、一馬は薄笑いを浮かべつつ一本煙草を取り出すと、自らで火をつけた。
深く、大きく息を吸う。
そして煙草からゆらゆら昇る煙と共に、一馬の口から出た薄色の煙が天井に昇って行った。
「ははっ・・・もっと君は自己破滅的な人だと思っていたよ。」
一馬は灰を落としながら、平然とした顔で言う。
その声を朔は目の端から涙を流しつつ聞いた。
「このくらいのタールでその調子じゃ、君はきっと狂気には程遠いよ。」
煙草を灰皿に置き、一馬は咽せる朔に顔を近付かせる。
「ならば安心だ。狂王は信頼に値しないからね。」
こぽこぽと部屋の隅から静かに音が立っている。
コーヒーメーカーから香ばしい香りが漂っていた。
やがて琥珀色の水滴が落ち終えると、蒸気が一気に立ちこめる。
一馬は側の食器棚から二つ、コーヒーカップを取り出し煎れたてのコーヒーをつぐと、ソファにぐったりとした朔に声を掛けた。
「君は、ブラックが好きだったね。」
特に返答がないのを肯定の意と解し、一馬は二つのカップに何も入れることなくソファ前のテーブルに運ぶ。
「飲みたまえ、少しは楽になる。」
朔は緩慢な手つきでそれを口元まで運び、ゆっくりと口に含む。
高級な豆を使っているのだろう。
苦み、酸味、甘み、うまみ、香り。その全てが口いっぱいに広がり、そしてそれぞれが調和している。
気分の悪さがその美味いコーヒーによって緩和されてゆくようだった。
そもそも気分の悪さの根元は先程一馬から受け取った煙草だ。
普段吸っているHOPEのタール量は14ml、対して一馬から受け取ったものは21ml。
数としてはたった7mlの差だが、実際に肺に入れた時の重みの差は大きい。
のし掛かるのがHOPEだとすれば、PEACEはのし掛かり、更に押し潰そうとする圧力。
慣れない者が吸えば気分を悪くすることも少なくない。
「最悪の気分だ・・・」
琥珀色のコーヒーの入ったカップをテーブルに置き、ぼそっと呟く。その様子を見て一馬は肩を揺らすようにして笑いながら言った。
「いやはや、申し訳ない。まさかあんなに咳き込むとは思わなかったよ。」
「皮肉か?」
「まさか・・・」
肩をすぼめるジェスチャーをしながら、立ったままだった一馬は朔と向かい合うようにして座る。そして顔を寄せていった。
「君に嫌われては話にならないんだよ、私たちの仕事はね。」
しばしの沈黙。
食えない奴だ、と、朔は思っていた。先程の二人とは違う。下手には出てきているが、何処か高圧的。わざと皮肉を言ってくるくせに、自分が必要だとも言う。
分からない、その意図。
「自己破滅的な人間がお好みなのか?」
朔の発言に、一馬は眉間に皺を寄せつつ半笑いを浮かべる。
「気にしているのかい?なら謝ろう。いや、別にそう言うことではないさ。文献では冥王は狂気に支配された人間が多いようでね、君ももうそうなのかと思っただけさ。」
「狂気が、そのまま自己破滅的に働くとは限らないぜ。」
コーヒーをもう一口飲んでから、朔は一馬から顔を遠ざけるようにソファに深く寄りかかる。
「人間なんてものは、須く自己破滅的で他者破壊的だ。壊したい、壊されたい。誰しも持ってる。狂気なんてものとは、関係ない。本能だ。」
「素晴らしいね。」
一馬もまた深くソファに寄りかかると軽く拍手をする。
「けれど、だ。」
そして拍手を止め、腕を組んで虚空を見ながら話し始めた。
「この世界で、最早人間が本能のまま生きることは許されていない。それは理性という形無き無言の圧力によって私たちの本能が抑圧されているからだ。けれど、なかにはいる。その抑圧から解放された存在が。本能のままに動く連中が。・・・それを私たちは異常と呼ぶ。・・・それが狂気さ。」
そして再び顔を朔の方へ出していった。
「『本能のまま』はつまり、狂気の産物さ。」
「何が言いたい?」
朔の言葉に一馬は顔を下に向け、そしてゆっくりと立ち上がった。
「君は既に狂気に侵され始めている。」
ブラインドの下ろされたままの窓に歩きながら、朔には背を見せながら一馬は言う。
「殺戮を楽しみ血で喜ぶ、わざわざ危険を楽しむ。なるほど、本来これらの感情は人間しか持ち合わせない、人間独自の感情だ。その意味ではそういった感情が真のヒューマニズムなんだろう。」
指の腹でブラインドを下げ、外の様子を見ている。外界の光が一筋だけ差し込んできた。
「近親相姦の欲望も、またしかりだろう。」
その単語に、朔は少しだけぎくりとしたが、大人しく話の続きを聞いていた。
「君は、どんな人間よりも人間らしい。けれど・・・」
ブラインドから指を話すと、一馬は朔の方に振り向いた。
「世間一般では、君のその純粋なヒューマニズムを異常と言う。狂気さ、解るだろ?」
朔は黙ったまま、その問いに答えない。しかし一馬は気に留める様子もなくゆっくりとソファに近付いてくる。
「返事がないのは、自分でも理解はしているようだね。なら話が早い・・・」
「何が、だ?」
ソファに座り直した一馬に、今度は朔が顔を近づけていった。
「君に、これ以上狂って貰いたくないんだ、私たちとしては。」
「私たち・・・?」
「そうだろう?闇の現を統べる王が狂気に侵されたら、誰が組織を仕切る?」
質問には答えず、逆に問いかけを一馬が返す。
「・・・さあな。知らない。」
聞かれてみて初めて思う。今まで冥王が不在の間、誰があの組織を仕切っていたのか。
「長老連さ。」
「ちょうろうれん?」
聞いたことのない言葉だ。自然と語尾が上がってしまう。
「聞いていないのかい?実力と経験を備えた、まぁ年寄りの搦手達を刺す言葉さ。君の祖父、児雷也も含まれている。」
へぇ、と感嘆の声をあげる朔を一馬は真剣な表情で見ていた。
「長老連も知らない、いや、知らされていないとすると・・・当然彼等の思惑なんて知りもしないことになるね。」
ちっ、と舌打ちすると、一馬はソファを立ちデスクの電話に手を伸ばした。
電話はすぐに繋がったらしく、一馬は、焦っているのか、大きめの声で言った。
「至急各地の長老連達の監視を強化させろ。奴等、何か企んでいる・・・」
受話器を下ろすと一馬はソファまで戻って腰を下ろした。
「すまないね、話の途中に。」
「いや、それより何の話だ?」
朔のその言葉に一馬はふうとため息を一つ付くと、目を瞑って言った。
「君には、辛い話かも知れないが・・・話さないわけにはいかないな・・・・」
再び、部屋を沈黙が支配する。
一馬は目を瞑ったまま、話すべき言葉を探っているようだ。
朔はというと、苛立っていた。
いきなり自分を狂人と言い、更に自分の知らない事で勝手に話を進めてられていることが不快だった。
HOPEを一本取り出し、自分で火を付ける。大きく吸って頭に行く血を抑え、なんとか冷静であるよう努めていた。
「何から、話せばいいのかわからないが・・・」
一馬は自分の煙草を取り出し、静かに吸い出す。
「冥王はいつの時代にも現れるものじゃない。嗚流津乃の門の開く時が近付いた時だけ。文献にはそう書かれているし、史実もそうなっている。」
紫煙を煙草の先端から上げている朔の眉が上がる。
「じゃあ・・・」
「そう、君が生まれたということは嗚流津乃の門が開くまであまり時間が無いということになる・・・話を戻そう。組織を率いる冥王が常在でないと言うことは、それに代わって組織のまとめ役が必要になる。それが長老連だ。」
言葉の句切りに一馬は深く煙草を吸う。
「長老連、名の通り頭の固い年寄りどもが我が物顔で冥王のものである闇の現を仕切っている。」
「俺の爺さんもその長老連とやらの一人なんだろ?」
長くなった灰を何本か吸い殻のある灰皿へ落とした。
「失礼、言葉が悪かったね。ただ実際彼等は本当に頑固でね、こちらとしても程々困っている。・・・危険思想の人間も多いしね・・・」
「危険思想?」
朔のその言葉に合わせるように、一馬もまた灰を落とす。
「そう・・・危険思想さ。困ったことにね・・・」
まだ長い煙草を灰皿に押しつける。
じゅっと小さく火がその役目を終えた音がした。
「支配者になりたいんだ・・・・彼等はね・・・・」
気付けば日はもう暮れていたらしい。
ブラインドからは僅かな光も差し込みもしなかった。
薄色の闇に覆われた部屋の中。
僅かな灯りは朔の煙草の火だけになった。
ゆらゆらと薄紫色の煙が上がり、音もなく霧散して行く。
「支配者?」
怪訝そうな顔をしたのは朔。
「この御時世にか?はっ・・・馬鹿げてる。」
どうにも闇の現に関わり始めて、こういった眉唾物の誇大な話ばかり聞いている気がする。
しかし一聞しただけでは鼻で笑う程度のものが、それが現実になったり事実であったりするから質が悪い。
悪い冗談、と言いきれないのが悲しいことか。
随分と物事を大人しく受け入れるようになった朔は、笑うのを止めるともう一度深く煙草を吸い直す。
そして短くなったそれを一馬と同じように押しつけた。
僅かな灯も部屋から消える。
静かな闇が訪れた。
「・・・話が分かるようで嬉しいよ。」
一馬自身信じがたい話であることは認識しているらしい。
ただその対応の仕方が否応なくそれが事実であることを裏付ける。
朔は一つ溜息をし、
「もう慣れたさ・・・話を続けてくれ。」
軽い諦念感が、少し疲れた顔の朔にはあった。
「そうしよう。」
しかしそんな朔に気遣う様子もなく、一馬は静かに言葉を紡ぎ出した。 「闇の現の人間は神々の眷属。そして天地創造の神の末裔。これが何を意味するか解るかい?」
「・・・いや。」
「・・・迫害さ。」
少なからず朔は驚いた。紅い目が大きくなる。
「驚くのも当然だろう。君たちは常人には考えられない程の力がある。しかし迫害に屈したのは事実だ。」
なぜ、と朔が言う前に一馬は話を続ける。
「例え強大な力を持っていても、それは無尽蔵ではない。数に屈したのさ。」
「なぜ、迫害された?戦ってきたんだろ、嗚流津乃と。」
一馬は首を振り、
「力は、・・・恐れられる。」
一馬は立ち上がり、灯りの無くなった部屋を数歩む。
「君たちの特異な力は恐怖の対象だった。追いやられ、歴史の闇で細々と生きてきた。それが闇の現さ。今のように国が後ろ盾になったのはごく最近、それまで君たちの歴史は辛く厳しいものだったのは、文献を少し読めば想像に難くない。」
歩きながら語る一馬。朔は大人しく聞いていた。
「迫害の理由は力だけじゃない。過去の闇の現特有の思想にも原因があった。神の末裔というその考えが、当時としては害悪だった。」
かつかつと、靴の音が響く。
「闇の現が存在していたのは、もっと古い文献の時代から古事記の出来た時代、またはそれ以前だと考えられる。つまり・・・」
灯りのない部屋で一馬の姿は闇に溶ける。
「天皇の力が絶大だった時だ。」
今度は天皇か・・・
うんざりだと思え、頭を垂れて朔はまた煙草を吸い出した。
「天皇は現人神、つまり当時は神と同じだ。それなのに、神の眷属を唱う集団が居たらどうなる?」
しばしの沈黙の後、朔が、
「なるほどね。」
とだけ言った。
「迫害が、神の眷属たる誇りと結びついて、選民思想のようなものが出来ても、まぁ不思議には思わない。」
一馬はまだ言葉を続ける。
「闇の現の神こそが真の神、冥王こそが真の王、闇の現こそ真の支配者・・・そういった、ね。」
ようやく合点がつき、朔が灰を落として身をより出す。
「それが危険思想・・・か。」
「その通り。」
かっち、と言う音と共に部屋の蛍光灯がつく。
一馬がスイッチを入れたのだ。眩しさに朔は目を細めた。
「彼等はこの国の支配を狙っている。君を祭り上げて、ね。」
じじじ、と蛍光灯から微かな音がする。
「彼等としては君が狂っても何ら問題はない。いや、寧ろ狂ってもらった方が嬉しいかも知れないね。自分たちが冥王の代わりに王になれるんだ。」
一馬の言葉一つ一つが、重くのし掛かるように朔に届く。
「彼等は君を狂わせたい。だから君に無茶をさせているんだ。時期不相応な力の解放は負担が大きい。肉体にも精神にもだ。」
スイッチのある壁際からソファに戻ってきながら、一馬はまだ語る。
「気にはなっていた。君の覚醒は予定としてはまだ後のはずだった。だのに今、君は冥王として覚醒している。これは何故か。・・・答えは一つ。」
「急いている?」
朔は元々細い目を、更に細くさせ一馬を見た。
紅い目が黒スーツを捉える。
「・・・そうだ。君の精神の崩壊を狙っているとしか考えられない。」
朔は一馬から目を逸らすと、じっと床を見る。
驚きと怒りで頭は渦巻いていた。
児雷也に踊らされていたことが、不快極まりなかった。
まんまとそれに引っかかり輝更を犯した自分に腹が立った。
驚きによる動揺が醒て行く反面、怒りは静かに蓄積して行く。
知らずのうちに握り締めていた手から、爪が肉に刺さったのか、紅いものが一筋垂れた。
噛んだ唇かも、同様に一筋。
煙草の灰は長くなりすぎ、床に落ちた。
憎々しげに灰皿に煙草を押しつける朔に、一馬はソファに座り直していった。
「君は、彼等の思惑に乗るかい?支配者になりたいかい?」
「ふざけるな!!」
朔の声が部屋に響く。思わず立ち上がっていた。
「誰がっ・・・」
「・・・その言葉が聞けて良かったよ。」
苦虫を噛み潰したような顔で座り直した朔に一馬が微かな笑みを浮かべて言う。
「この仕事、信頼が一番だからね・・・」