第六章 渦、月光、血、そして刹那の交錯
boy, in the moonright
「痛みはいい。生きていることを、思い出させてくれる。たとえ拒もうとも。」
雨は止む気配を見せず未だ降り続けている。
雨音を聞きながら、朔は失意の中にいた。
彼は一つの禁を破った。
輝更を、犯したのだった。
ともかく興奮でいっぱいだった。
貪るように行為を続け、貪欲に快楽を求めた。
欲望をまだ幼い少女に吐き出し続けた。
そして、その行為の果てに彼が得たもの。
一瞬の満足と、深い絶望。
訪れたのは、あまりにも重い沈黙だった。
涙も枯れ、濁った目で放心し続ける輝更に、朔は一言声を掛けることすらできなかった。
暫くして、輝更は遅い動作で簡単に衣服を整えると、ふらふらと浴室の方へ向かっていった。
簡単に身を清め、新しい服のに袖を通す。
そして、何も言うことなく、雨の降り続ける外へと出て行った。
朔は、傘も持たずに出て行った幼い妹に、何も言ってやれなかった。
ただただ自分の行為に後悔し、煙草の紫煙を肺に入れ続けていた。
「禁忌は犯された、か・・・・・・」
一台の車の中で女は静かに言った。
「でも、早すぎる・・・・・・まだ、時期ではないはず・・・・・・」
「何を・・・・・・ぶつぶつ言っているんですか・・・・・・」
冷静な女に対し、男は動揺しているのか微かに震えた声で言った。
「どうかしたの?」
女は感情を全く込めていない声で言った。
「どうかしたって・・・・・・」
狼狽える男に女は言葉を続ける。
「私たちは私たちの仕事をすればいいの。彼らの私生活に首を突っ込む必要はないわ。」「それは・・・・・・わかってます・・・・・・けど・・・・・」
「けど、なに?」
男の煮え切らない態度に気を悪くしたのか、女は些かきつい言い方をした。
「・・・・・・僕らのしていることって、正しいんでしょうか・・・・・・」
男の言葉に女は一瞬言葉に詰まった。
目を瞑り、そして呟くように言う。
「正しさなんて・・・・・・あり得ないわ・・・・・・」
日付が変わろうとしていた時だった。
何度か玄関の呼び鈴が鳴った。
耳障りに思いながらも、朔はそれを無視し続けた。
何度音は出されただろう。
来訪者は痺れを切らしたのがノブに手をやった。
「何じゃ、開いておったか、不用心じゃのう。」
しがれた、がらがら声。
「お主一人か。」
児雷也だった。
「かかっ、気分はどうじゃ、朔?」
まだソファーに寝そべり続けていた朔は、児雷也に背を向けるように寝返りをうった。
「随分と嫌われたのう。」
何故か嬉々とした声で児雷也が言う。
耳障りだった。
「遂に禁忌を犯したか、朔よ。」
朔は一気に身を起こし、児雷也を睨んで言った。
「何の話だ。」
「カマトトぶっても無駄じゃ。お見通しじゃよ。」
・・・・・・
沈黙が訪れる。
朔の目からは憎悪が放たれていた。
「・・・・・・何故知っている。」
沈黙を破ったのは朔の方だった。
しかし未だ朔の目は児雷也から離されてはいない。
「認めるんじゃな。」
児雷也がそう言った瞬間だった。
明かりによって作られた児雷也の影から、鋭利な刃のような影が一筋伸びた。
朔の力によるものだ。
それは児雷也の首下に、突き刺さる直前で止まった。
「余計なことを話すな。」
赤い瞳が老人の目を射抜いている。
「殺すぞ。」
その声には一片の迷いすら含まれてはいなかった。
雨はどうやら止んだようだ。
風が強く、湿った空気が脇を通り過ぎてゆく。
朔はバイクに跨り夜の街を駈けていた。
余りに焦って出てきたため、ヘルメットを被っていない。
髪がばさばさと音を立てる。
(輝更っ・・・・・・・)
焦り。
(輝更っ・・・・・・・)
恐れ。
(輝更っ・・・・・・・)
不安。
(輝更っ・・・・・・・)
そんな感情を淀ませ、朔は急いだ。
愛しき者の傍へ。
「『墓』の回りに、新しい罅ができておったからの。」
首下に鋭利な闇の刃を突きつけられているにも関わらず、児雷也は平静な態度である。
「『墓』?」
「そう、『墓』じゃ。この間お主が地下で見た、あの巨大な岩のことじゃよ。」
「ああ、あれか。」
穂村神社の社の地下にあった、深い深い地下空洞。
その深奥にあった巨大な岩。
忘れてはいない。
「で、あれに罅が増えるのとどう関係がある?」
朔の声に抑揚はない。ただ淡々と口から放たれているだけだ。
「あれはな、斑愈回の墓のようなものなんじゃよ。そして、封印のようなものじゃ。」
岩に貼ってあった楔と書かれた札を朔は思い出していた。
「斑愈回が目覚める時にあの『墓』は崩れる。冥王がその力に目覚めることによって増えてゆく、その回りの罅のせいでな。」
朔は黙って聞いていた。
「そして、先程見てみれば罅が増えていた。」
何も、朔は言わない。
「少し考えれば、いや考える必要もない。」
児雷也は口端をつり上げるようにして笑う。
「お主が禁忌を犯した証じゃ。」
「くたばれ。」
朔がそう言った瞬間、それまで制止していた刃が動いた。
しかし、それは児雷也の首には刺さらなかった。
突如現れた紫色の雷によって、朔の闇が掻き消されたのだ。
「しかしお主、こんなことをしていて良いのか?」
紫電を纏いながら児雷也が余裕げに言う。
「あぁ?」
既に臨戦態勢になっていた朔が不機嫌さを隠すこともなく言う。
数本の刃を自らの影からだし、両腕に闇を纏っていた。
「お主が禁を犯したことで、輝更は目覚めた。」
「それがどうした。」
「禍凶はな、優先的に儂等を狙うんじゃよ。まぁ、当然と言えば当然じゃがな。」
「なっ!」
児雷也は笑いながら言う。
「目覚めたばかりで力も使えない・・・独りでいては、格好の的じゃろうな。」
「この・・・・・・・糞がぁ!」
吐き捨てるように、朔は叫んだ。
雨、止んだんだ・・・・・・
雨脚の音が聞こえなくなったことで、輝更はそう思った。
日付は変わり、日曜になった。
「にーっ・・・・にーっ・・・・」
抱いていた仔猫が鳴く。
輝更はそれを強く抱きしめた。
廃工場連の、一つの朽ちた工場の中。
丁度一週間前、朔と共に来た場所。
慕っていた、兄と来た場所。
嫌ってなどいなかった。
寧ろ、好きだった。
好きだった・・・・・・
でも・・・
でも・・・・・・
「にーっ・・・・にーっ・・・・」
輝更の周りにいた三匹の仔猫が鳴く。
輝更は頭を振って、今まで考えていたことを追い出してから言った。
「ごめんね、今は何も持ってないんだ。」
輝更は先週からずっと、この仔猫たちに餌をあげていた。
仔猫たちは輝更の言葉を理解したのか、一ヶ所に集まり静かに寝息を立て始めた。
(・・・でも・・・・・・なんだろ?)
それを見て少し安心すると、敢えて別のことを考えようとした。
(いつもと・・・・・・雰囲気違う・・・・・・)
雨の中ふらふらと歩き続け、毎日訪れていたこの場所に着いた瞬間に感じた違和感。
最初は夜だからだと思った。
でも、何か違う。
何かに見られているような。
そんな感じ。
ふっと、思い出す。
『ここに入って何か感じなかったか?こう・・・、入ってはいけないところに入っちまったような感覚というか、何かに・・・、見られてるような感覚とか・・・。』
兄の言葉。
その刹那だった。
背中を寒気が走る。
感じる、何かの存在感。
ぞくぞくする。
間違いない。
何か、
いる。
「なに・・・・・・?」
確かに感じた何かの存在感に、ついつい声が漏れた。
せわしなく目を動かし、それを見つけようとする。
その青い瞳が天井の隅に向けられて時だった。
「・・・・・・?」
言葉が出なかった。
蠢く、異形。
“屑“である。
ナメクジのような皮膚を蠢かせ、幾つもの“屑”が現れ始めている。
「何・・・・?何なの?」
驚愕によって、思考回路が上手く繋がらない。
ただ、意味のない単語を連呼するだけだ。
そして、愕きは恐怖に変わった。
空間の、中心の闇が濃くなった。
大きさはビヤ樽程度。
濃くなった闇は“屑”と同じように、その姿を段々と構成してゆく。
天井近くを飛び回る異形と同じ、ナメクジのような皮膚。
身体の中心には、“屑”の身体分はある一つ目が鎮座している。
その下は、口なのだろうか。
短く、気味の悪いぐらいに鮮やかな黄色の触手が、何本も蠢いている。
そこから紫色の、粘着質な液体が溢れてこぼれている。
それからは腐敗臭が漂ってきた。
身体中からあぶくが出ていて、破裂する度汚い紫色の霧が出る。
そして、一体どういった原理なのだろう。
“屑”のように翼があるわけでもないのに、その気色の悪い身体が宙に浮いている。
身体の中心にある、光の宿っていない目が輝更を見た。
誰もいない夜の廃工場連に、少女の悲鳴が響いた。
「お主が戦った禍凶、あれはのう、“屑”と呼ばれておる。」
「“屑”・・・」
すぐに駆け出して行こうとする朔を、児雷也は引き留めていた。
「禍凶のなかでは、まぁ雑魚の部類じゃ。お主でも簡単に仕留められる。しかしな・・・」
表情が気にくわない、朔はそう思った。
児雷也の目は何故か嗤っている。
「より強力な禍凶と共に現れる性質があるようでの。あの時は儂等がそちらを相手にしたが・・・・・・」
児雷也はそこで一旦区切ると、かかっと笑ってから続けた。
「お主の今の力で、どうにかなるかのう・・・?」
ごつっ、と骨と骨がぶつかり合う、耳障りな音。
「あっ・・・がっ・・・」
児雷也が床に倒れ込みながら無様な声を上げた。
朔の拳に、顎を思い切り殴られたのだ。
「くたばれ・・・くたばれ耄碌爺!!」
未だ立ち上がることすらできない児雷也の脇を抜け、罵声を浴びせながら朔は夜の街へと駆け出していった。
「っつう・・・」
暫くして、児雷也は顎をさすりながらゆっくりと立ち上がった。
(まさか拳でそのまま殴ってくるとはのう・・・)
予想だにしていなかった朔の行動に苦笑しながらも、児雷也は静かに御鏡家を出た。
鍵を閉める者のいない家。
風が出てきた。
「久しぶりに、月が見れるかもしれないのう・・・・・・」
真っ黒な雲が、風に運ばれていた。
「・・・っ!」
悲鳴と同時に飛び掛かってきた屑を咄嗟の反応で躱す。
しかし体勢が不安定だったためか、輝更の身体は硬いコンクリートに倒れた。
勢いがありすぎたのか、何度か床を転がる羽目になった。
「いっ・・・たっ・・・」
膝が痛む。
どうやら怪我をしてしまったようだ。
少しでも動かすと鈍い痛みが走る。
骨に強い衝撃があったようだ。
痛い。
動きたくない。
しかし脳は止まっているのは危険だと叫び続けている。
幼い顔を苦痛に歪ませながら、輝更は抱えていた仔猫を庇うようにして立ち上がると、覚束ない足取りで走り出そうとした。
しかし今さっきまで眠っていた三匹の仔猫たちは、恐怖に駆られたのだろうか。
身を寄せ合って震えたままそこから動こうとしない。
「あっ・・・」
それを視界の端に捉えた。
助ける?
でも・・・・・・
一瞬躊躇する。
だが決断はすぐに下された。
深く息を吸う。
痛みをこらえ床を蹴る。
一歩、二歩・・・
屑を何とか躱しながら。
もう少しで届くはずだった。
本当にもう少しだった。
しかしその時、第六感が言った。
踏み出すな。
何故そんなことを思うのだろう。
刹那の驚きだった。
しかしそれが最後一歩の距離を縮めさせた。
一歩踏み出していたら、輝更がいた場所。
つまり、三匹の仔猫がいた場所。
そこに暗い紫色のなにかが幾本も突き刺さった。
串刺しだった。
三匹の小さな身体が、百舌の速贄の様に。
あの、大きな禍凶の体中からそれは伸びていた。
何処に行けばいいのか解らない。
何処にいるのか解らない。
しかし止まるわけにはいかない。
ただただその思いに駆られながら、朔はバイクを走らせ続けた。
しかし何故だろう・・・
まるで吸い寄せられるように。
朔は走り続けた。
鼓動が聞こえる。
輝更の鼓動が。
その鼓動に向かって朔は急いだ。
それを、魂の鼓動だと信じ。
自分たちの、魂の共鳴だと信じ。
赤い血が滴り落ちて床を染める。
輝更の足下までそれが広がってきた。
戦慄が背中を駆け上がっていった。
それは電流のように。
もし、後一歩踏み出していたら。
自分が、あの謎の生き物によって串刺しにされた姿が嫌が応にも浮かび上がる。
恐怖。
全身を駆けめぐる、恐れ。
目の前にした死。
そして死体。
血。
骨。
臓腑。
髄。
限りなく、そう、限りなく傍にあるのだ。
自身の死が。
殺される。
その直前の恐怖。
涙が溢れた。
怖い。
怖い、怖い、怖い。
大粒の涙が溢れてはこぼれ落ちてゆく。
(助けてっ!)
目をきつく瞑り、ただそればかりを思う。
(助けてっ!)
思い浮かぶ、一人の人。
(助けてっ!)
赤い目の、人。
(助けてっ!)
血を分けた、人。
(助けてっ!)
契りを交わした、人。
(助けてよ、お兄ちゃん!!)
禍凶たちは、震えながら動かなくなった輝更にじりじりと近付いてゆく。
それは死の接近。
少しずつ、少しずつ近づいてくる。
命の尽き。
恐怖は加速し、心を絶望へと向けて運んでゆく。
惨めさと、哀れさと、悲しさ。
今まで感じたことのある、ありとあらゆる負の感情。
それが一気に溢れ出てくる。
身体がそれでいっぱいになろうとした。
心が挫かれそうだった。
それだけで死にそうだった。
死は、近い。
近づいてきている。
その時だった。
「輝更ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
望む人の声が、聞こえた。
自らの声が響き渡った。
震えながら立ちつくす、輝更。
それを取り囲む屑と、そしてそれらより一回り大きな禍凶。
安堵で一瞬顔が緩んだ。
無事だ。
よかった、本当に。
だがすぐに気持ちを切り替える。
今は、無事なだけだ。
事態はかなり悪い。
輝更は禍凶に囲まれている。
屑は自分の力でどうにかなるのは解っている。
しかし、一体の大きな禍凶。
その力は未知数だ。
それに、児雷也も今の自分の力ではどうなるか解らないと言っていた。
しかし、迷っている暇はない。
「輝更から、離れろぉぉぉぉぉぉ!」
叫ぶと共に辺りの闇を腕に纏う。
黒い、異形の腕が現れる。
朔は禍凶の群れに腕を振りかざしながら突っ込んでいった。
その足は驚く程速い。
闇が、朔に力を与えていた。
「おおおぉぉぉぉ!!」
咆吼。
振り下ろされた腕は何匹かの屑を切り裂いた。
不快な感触、そして異臭が漂ったが、この時そんなことを気に留めている余裕は朔にはなかった。
朔の一撃によって、二人の間を遮るものはなくなった。
「おにい・・・ちゃん?」
実の兄の、奇っ怪な姿に輝更は困惑した。
化け物に囲まれた自分を、尋常でない姿の兄が助けに来た。
頭の中は先程の恐怖と相まって、いよいよ混乱の渦にもまれそうになる。
しかしそれは阻まれた。
朔の言葉によって。
「輝更・・・・助けに来たぜ・・・・・」
何故ここが解ったのか。
何故そんな姿なのか。
何故こんな生き物がいるのか
何故。
何故自分は今こんなにも嬉しいのか。
解らないことが多すぎる。
解らないことが多すぎる、それでも、一つのことははっきりとした。
自分は、朔を、嫌ってなどいないのだということは。
「走れ!」
朔は短く叫んだ。
輝更はそれに呼応し、片足を庇うような不格好な姿で駆けだした。
朔もまた走り出す。
その身に暗い暗い闇を纏い。
少女は出口へ向けて、少年は異形へと向けて走る。
二人の姿は闇の中で交錯した。
交わされる、笑顔。
そして二人は駆けた。
向かうべき場所へ。
「おおおぉぉぉぉぉぉぉ!!」
朔が再び叫び声を上げた時だった。
「がっ・・・・あぁっ・・・・・」
それは短い悲鳴にかわる。
一体の禍凶から伸びた、その鋭利な何かが朔の体中に突き刺さっていた。
「あっ・・・」
突き刺されたそれを抜かれ、血が噴き出す。
前のめりになって倒れるのを、なんとここらえるのが限界だった。
腹部、左肩、右腕、そして左足太腿。
その四ヶ所を刺された。
血が噴水のように噴き出してゆく。
どくどく、どくどくと音を立てながら。
「くぅっ・・・・・・」
背中にじっとりと汗をかく。
脂汗で気持ち悪い。
最初はそれが痛みだということすらわからなかった。
熱。
刺されたヶ所が強烈な熱を放ち、やがてそれが全身を駆けめぐる。
それでようやくそれが痛みであることが解った。
「お兄ちゃん!」
朔の入ってきた所にまでたどり着いた輝更が、兄の悲鳴に反応して声を上げた。
「くあぁぁぁぁぁぁぁ!」
痛みを堪え、朔は闇の刃を床から伸ばす。
生物のそれとは思えぬ声を上げながら、多くの屑をそれで刺し殺した。
しかし一体の大きな禍凶はそれを器用に躱す。
「早く、逃げろ輝更!」
全身から絞り出すようにして朔は叫んだ。
輝更は躊躇いながらも、暗い廊下へと駆けてゆく。
それを確認すると、朔は再び身構えた。
あらかたの屑は片付けた。
問題は、あのでかぶつである。
(どうする・・・・・・)
血まみれになりながら、朔は二人が生きて帰れる方法を闇のなか模索する。
(一旦・・・・引くか・・・・)
自分の力では相手にできない、そう判断し朔はこの場は逃げることにした。
(一旦逃げて、後は他の連中に任せる・・・)
なにも自分で始末する必要はない。
力がある者がやればいいだけの話だ。
大切なのは、輝更を守り切ることだ。
決断を果たす。
視界に閉じられたシャッターが目に入った。
(あそこから・・・)
禍凶の後ろにそれはある。
出口へ向かうよりは近い。
「うおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ!!」
咆吼と共にまた血が吹き出る。
激しい激痛。
しかし今は悠長なことを言ってはいられない。
力を振り絞り、朔は足下から闇の刃を伸ばした。
刃は禍凶へと向けて伸びてゆく。
朔はそれを見ながらシャッタ−へと走った。
刃は朔の足下の影から次々と現れては禍凶に向けて伸びてゆく。
禍凶は刃を避けており、一撃も当たっていない。
しかしそれでもよかった。
ともかく自分が脱出するまでの時間が稼げれば。
穴の開いた左肩にも力を込めながら、朔はシャッターを開いた。
そして外へ転がるように出る。
シャッターはすぐに下へと下り切った。
「くうっ・・・」
勢いよく肩から血が出たが、何とか逃げ切れたことに朔は安堵した。
「うっ・・・・ううっ・・・・・・」
何とか身体を起こし、シャッターに寄りかかる。
「いってぇ・・・・・」
刺されたヶ所は未だ血の止まる気配もない。
シャツはもう血で真っ赤に染まっていた。
「お兄ちゃん!」
シャッターの開閉される音を聞いたのか、輝更が入り口の方向から駆けていた。
輝更も無事逃げ切れたようだ。
朔がそれを見て微笑もうとした時だった。
「かっ・・・」
朔の胸から紫色の刃が現れた。
いや、違う。
突き刺さったのだ。
禍凶の一撃は、シャッターすらも貫通し、朔に一撃を与えたのだ。
ゆっくりと、刃が引き抜かれてゆく。
ぐちゅぐちゅと、肉がそれに擦れる音を朔は聞いた。
胸から勢いよく血が吹き出た。
視界は少しづつ暗転してゆき、すべてがコマ送りのようだった。
朔の身体は、ゆっくりと倒れた。
お兄ちゃん、と叫ぶ輝更の声を遠くに聞いた。
そして、聞こえなくなった。
何も・・・
禍凶は紫色の刃でシャッターに幾つも穴を開け、自分が通れるだけの穴を開けた。
紫色のそれが、ゆっくりと宙に浮きながら出てくる。
朔は倒れたまま動かない。
輝更は恐怖のあまり、地べたに座り込んでしまった。
禍凶はいよいよ近付いてくる。
死の運び手が。
「瑞樹さん!!」
男が叫んだ。
「解っているわ、こればかりは傍観している場合じゃない。」
いつもなら名を呼ぶことをきつく注意する女も、この時は焦っていた。
「目標を保護して、逃げるわよ!」
そう言いながら女が車の外に出た時だった。
「余計なことをされてはかなわんのう・・・」
老人の、嗄れた声が後ろからした。
「琴里・・・児雷也・・・・」
そう言ったのは男の方だった。
「長老連のトップが、何の用?」
これは女が言った。
「黙って見ておればいい。余計な手出しは無用じゃ。」
ぎょろりと目を動かしながら言う。
「そうはいかないわ。あの二人は計画の要なのよ。こんなところで失うわけにはいかないのよ。」
女は児雷也を睨みながら言う。
「それは貴方もご存じのはずでしょう。」
女の言葉に老人はかかっと嗤って答えた
。
「“業”ごときにやられるようでは、要としての役割を果たせんよ、それにのう・・・」
児雷也の視線は天を仰いだ。
久方ぶりに、夜空に月が出ている。
「儂等の王は、この程度では死にはせんよ。」
この老人は、喜んでいる。
女は、児雷也の顔を見てそう思っていた。
暗い。
暗い。
暗い。
闇。
何もない。
何も感じない。
ただひたすらに暗い。
闇。
朔の意識は暗い闇の中を漂っていた。
墜落感を感じる。
どうやら墜ちていっているようだ。
暗く、深い闇に。
深く。
深く。
深く。
深く沈んでゆく。
闇へ。
死んだのだろうか、自分は。
闇に沈んでゆきながら、ふとそんなことを思う。
もう痛みも感じない。
死んだのか・・・
・・・
・・・
・・・
死んだ?
・・・
・・・
・・・
・・・・・・
輝更を・・・・・・
守れずに・・・・・・?
・・・・・・
・・・・・・
・・・・・・
嫌だ・・・・・・
嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ。
輝更・・・・・・
・・・
いつの間にか墜落感は消えていた。
深い闇の底。
完全なる闇。
至高の闇。
そこに何かがいた。
全身を注連縄で巻かれ、その上から無数の札を付けられている。
その身体は巨大で、闇の底で蠢いている。
身体が闇に縛り付けられているようだ。
藻掻いているが、余りに動きが不自由そうだった。
朔のすぐ傍に鎖がある。
どうやらこれに縛られているようだ。
朔は何も迷うことなくそれを外していた。
闇の底のそれはそれが嬉しかったのか、目を初めて開いた。
朔と同じ、深紅の目だった。
「お兄ちゃん・・・」
震える声で輝更が言った。
朔は立ち上がっていた。
全身に穴を開けながら。
血みどろの姿で。
満身創痍ながら。
朔は立っていた。
輝更へ近付いてきていた“業”は朔へと向きを変える。
一人と一体が対峙する。
圧倒的に朔が不利だ。
まだ拙い力は相手に届かず、また傷だらけで動きが鈍い。
勝機は、限りなく無に近い。
それは朔にも解っている。
相手に接近し、一撃を躱す。
そして一撃で仕留める。
これが理想だ。
しかし。
(避けられるか・・・この身体で・・・)
血と共にまるで力が抜けていったような感じだ。
立っているのがやっとである。
(躱す・・・最初の一撃を・・・)
朔はまともに力のこもらない足で地面を蹴った。
(躱して・・・仕留めるんだ・・・・)
“業”はその身体から紫色の刃を伸ばしだした。
(仕留める・・・・一撃で・・・・)
自分へと向けて向かってくる刃。
(一撃で・・・殺す・・・)
しかし朔は脇に避けようともせず真っ直ぐ“業”へと向けて突っ込んでゆく。
(殺す・・・・・・)
朔の目が見開かれた。
(殺す!!)
朔の闇を纏った腕が突き出される。
しかしそれは朔の前の空間に吸い込まれてゆく。
いや、正確に言えば手前の“闇”に、だ。
そして吸い込まれていった刃は“業”の後ろの闇から現れてゆく。
朔の身体は、手前の闇から、“業”の背中の闇へ、闇を通じて吸い込まれ、そして現れてゆく。
完全に背後を取った。
朔は全体重を右腕に掛け、“業”へと突き出す。
ぬるぬるとした皮膚を貫き、生ぬるい感触を感じながら、腕は“業”を貫いた。
耳障りな断末魔の声を上げ、不快な腐敗臭を漂わせながら“業”の身体は溶けてゆく。
静寂が訪れた。
朔の荒い息づかいだけが聞こえる。
ゆっくりと輝更の方を朔は向いた。
「お兄ちゃん・・・」
輝更が涙を浮かべながら微笑む。
朔もまた微笑んだ。
そして、またゆっくりと倒れていった。
「見たか!見たか!やった、やりおった!」
遠くから朔を見ていた児雷也は嬉々としながら言っている。
「まさか、まさかもう『移し』を使うとは!ふははは、ふははははっ、最高じゃ、最高じゃよ朔!!」
『移し』、それが先程朔が使った技の名。
闇の神斑愈回の力を引き継ぐ者の力。
闇から闇へ空間を『繋ぎ』、移る。
闇という存在を操る、それが冥王の、冥王たる所以。
しかし『移し』を行うにはそれ相応の力が必要とされる。
だが、まだ目覚めて間もない朔がそれをやってのけたのだ。
「ふははははははっ、まさか『穿ち』や、『腕』以外の力まで使うとは!!最高じゃ!!」
「はしゃいでいる場合じゃないですよ!」
歓喜の声を上げ続ける児雷也に咎めの声を駆けたのは男だった。
「あんたの孫が死ぬかもしれないんだぞ!」
しかし児雷也はただ笑い続けるだけで全く聞く耳を持たない。
「儂等の、新しい王は素晴らしい!何という才能じゃ、これで、これで儂等の悲願が成就される!!」
「行くわよグレイ、目標を保護するわ。」
女はそんな児雷也を嫌悪の目で見ながら、男に指示した。
「はいっ・・・?」
返事をしたものの、男は動かない。
朔のいる場所を凝視していた。
「どうしたの?」
男の態度を不審に思い、女が言う。
「あれ・・・」
男が指差した先には、光に包まれた少女がいた。
血が出すぎたようだ。
もう力が全く入らない。
呼吸すらままならない。
痛みも、段々感じなくなり始めた。
後はもう、死を待つばかりだろう。
「お兄ちゃん・・・」
輝更・・・
「お兄ちゃん、大丈夫・・・大丈夫なわけないよね・・・こんなに・・・血が出てる・・・・・・」
泣かないで、輝更。
「ありがとう、お兄ちゃん・・・・助けてくれて・・・・」
当たり前の、ことをしただけだよ。
「お兄ちゃん・・・」
「き・・・さら・・・」
命を、絞り出すように声を出した。
「おにいちゃん・・・」
「俺は・・・お前を・・・」
白い肌が、血を失いさらに青白くなっている。
身体は熱を失い始めていた。
「好きなんだ・・・・・・・」
輝更は何も言わず、ただ頷いた。
「妹としてでなくて・・・・・・」
大粒の涙を流しながら、ただ輝更は頷き続ける。
「非道いことをして・・・ごめんな・・・・・・」
金色の髪を揺らせながら、輝更は今度は首を横に振った。
「そんなこと・・・ないよ。」
「輝更・・・」
「ただ・・・驚いただけだから・・・」
輝更・・・
「あと・・・ちょっと怖かった・・・・・・」
ごめんな・・・
「でも・・・でもね、わたし・・・」
・・・・・・
「私も・・お兄ちゃんのこと好きだよ・・・・・・」
あぁ、俺はただ、この一言が聞きたかったんだ・・・・・・・
薄れ行く意識の中で、朔は自分が救われたのだと思った。
ゆっくりと、瞼が下りてくる。
「だから・・・・・・」
そして、閉じられた。
「死なないでよ・・・・・・・」
答えてやれる、力がもうない。
「いなくならないでよ!」
輝更・・・
お前を・・・残していきたくないのに・・・
闇。
飲まれてゆく。
けれど、なぜだろう。
瞼の裏に、光を感じるのは。
そうか、月が出ていたな・・・
どうか・・・
輝更は・・・
光の中で・・・・・・
あぁ、眩しい光だ。
けれど、心地よい。
なぜだろう、身体が温かい。
輝更・・・
お前なのか・・・
再び、朔の目が開かれた。
しかしすぐに目は細められた。
眩しかった。
光の少女。
月光を受け、輝更の身体が輝いている。
光の御子。
そして朔は悟る。
自分は、この少女のために生き、そして生かされるのだと。
夜空に浮かぶ月は、丸く、蒼く輝いている。
闇と光の混沌の中で、一人の少女と一人の少年がいた。
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闇の現
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