第五章 禁忌を犯す者
He did it
「王者たる者よ。」




 今日も朝から雨だった。

 しとしとと雨を降らす雨雲は、今日も世界を仄暗く染めている。

 時計の針の進む音と、電化製品の低い唸り音、そして思い出したように行われる呼吸音。

 室内はとても静かだ。

 雨粒がアスファルトに当たり砕ける音と、遠くを走る車の水溜まりを弾く音が断続的に響いている。

 五日連続の雨だった。

 火曜の真夜中に降り出した雨は降ったり止んだりを繰り返していた。土曜となった今朝は降っていなかったが、空はどんよりと暗かった。そしてやはり昼過ぎから降りだし、今も降り続けている。

 朔はリビングのソファーに寝そべりながら、毎日飽きると無く降り続ける雨粒をただぼんやりと眺めていた。

 記憶が途切れる寸前に見た光景、それは確かに雨空だった。

 あの夜、屑達に囲まれ、そして不思議な力に目覚めた自分。  その力を用い、屑達を皆殺しにした自分。

 断片的に残る記憶。はっきりとしたことは覚えていない。

 ただ、最高の気分だった。

 ありとあらゆる柵や抑圧、その全てからの解放。

 血沸き肉踊る、全身全霊の昂揚。

 快感のための身震いが止まらなかった。

 命を奪えば奪うほど、背筋に戦慄にも似た快感が走った。

 ぞくぞくし、どきどきした。

 笑った。

 腹の底から沸き上がった喜びと満足。

 笑いが止まらなくなった。

 全てを終えもなお笑い続けていた自分。

 そしてシャッターが開かれた。

 雨音が聞こえた。

 ・・・・・・

 それからの記憶はない。そこで意識は一旦途切れた。

 気付いたとき、朔は自分のベッドに寝かされていた。

 懐かしい、ヤニの臭いのする自分の部屋だった。

 疲れていた。

 窓越しに聞こえる、雨粒の流れていく音に自分の体が溶けていくような錯覚を重ねる。

 それでもいいか、と思い目を瞑る。

 疲れていた。

 暗い闇に意識を沈めた。

 眠りに落ちた。

 何も考えたくなかった。



 

 倉庫の中での一件から一夜明けた、火曜日。朔が再び目覚めたのは日が沈んで久しい夜のことだった。

 この時も窓越しに雨音を聞いていた。

 すっかり暗くなった部屋で目を覚ました朔はすぐには起きあがらず、ただじっと天井を眺めていた。

 天井に線を組み合わせて描かれた模様を、目でなぞる。しばらくの間ずっとそうしていた。

 どれほどそうしていたのかは覚えていない。やがてその行為に飽き、朔は枕元に置かれていたカンケースに手だけを伸ばした。それは、揺れる度にかさかさと紙の擦れる音がした。朔の煙草ケースだ。

 丁度銀色のジッポライターとこれまた髑髏の灰皿が枕元に並べてあるのを確認し、朔はゆっくりとに煙草に火を付けた。

 大きく息を吸う。フィルター越しに肺へ酸素が運ばれる。そして十四ミリのタールの重み。脳が揺れるような圧力の後、ゆっくりと煙を吐いた。

 煙はゆっくりと上って行き、やがて天井で行き場を失い周りの空気にその粒子を溶かしてゆく。朔は天井の模様に変わり、今度は気化してゆく煙を濁った目でじっと見つめていた。

 何本煙草を髑髏の頭部につくられた灰入れに押しつけただろう、やがて朔は空腹に耐えきれなった。それに空っぽの胃に煙草の味が染みすぎたのか、どうにも気分が悪い。ゆっくりと、朔は上体を起こす。そして鈍い動きで部屋を出た。その時夜目の聞く目の端で捕らえた時計の針は、既に深夜を回っていた。

 部屋から出てすぐに、朔はまだ一階に誰かがいることに気が付いた。リビングからの明かりが壁に階段の手摺りの陰を映していた。



「朔・・・・・・」

「・・・・・・」

 リビングにいた晴海が開かれたドアを向き、息子の名を呟いたが、朔は返事をしなかった。晴海とみのり、それに向かい合って児雷也がソファに腰掛けていた。

「朔・・・・・・」

 返事をしない息子にみのりが声を掛ける。それが座れ、という意味であると解釈し、朔は三人にあまり近寄らずに絨毯の上へ座り込んだ。空いているぞ、と児雷也が彼の隣の席を軽く叩いたが、朔は首を振ってそれを断った。

 近づきたくなかった。

 重苦しい沈黙が四人の間に訪れた。みのりは顔を伏し、晴海は額に手を当て渋い顔だった。児雷也は目を瞑ったままの姿勢を保っている。朔はそんな三人の顔を順に見回した後、誰かが話し始めるのをじっと待った。

 時計が時を刻む音、雨音、家電のモーター音。その全てが気になった。

 沈黙を破ったのは児雷也だった。彼は痺れを切らしたのか、かっと目を見開き晴海とみのりに向かって言った。

「お主らから話すと言ったではないか。それとも儂から言うか?」

 嫌な目だ、朔はそう思った。威圧感があり、相手を脅迫する目だ。

 児雷也の言葉に晴海は強く目を瞑った。やがて、意を決したのか目を開くと朔の方を向いて言った。

「昨夜のことを、覚えているか?」

 その言葉に朔は気が遠くなりそうだった。心の隅で夢か幻だったなら、自分の妄想や狂気の産物であっても構わないとも思っていた淡い期待が、音を立てて崩れていった。期待しない方がまし、解っているのに何故自分は馬鹿げたことを考えるのだろう。いたたまれない程の自己嫌悪を感じたが、朔はゆっくり首を縦に振った。諦めの色が色濃く表情に出ていた。

「そうか・・・・・・翁からほとんど聞いたのだろう?」

 翁とはどうやら児雷也のことのようだ。昨夜もそう呼んでいた記憶がある。

「・・・・・・」

 朔は無言のままに頷いた。

 再び沈黙が訪れた。晴海は強く目を瞑り、次の言葉を探しているようだ。みのりは先ほどから顔を上げようとしない。

「全て翁の言った通りだ。お前は冥王で、私たち搦手、つまり闇の現の全てを率いる者だ。・・・・・・・昨夜あの場所にいた者全員、お前の率いるべき者達だ・・・・・・」

 最後は消え入りそうになるほどの声で、晴海は開いた目を朔から背けて言った。

 朔は眩暈を感じた。ふっと、意識が消え入りそうになる。晴海の言葉はつまり、みのり、燎士、翼、百合子、そして見知らぬ人々と晴海自身も児雷也のような異能の力を持っていると言うことだ。そして、昨日の児雷也の言葉を考えると、朔の押し殺してきた密かな思慕の情は、彼等全員に知られていることになる。

『輝更は光りの御子、斑愈回の魂に付き添う伊於呂子の魂を受け継ぎし者。それ故に、お主は輝更を求める。闇の現の者は、皆知っておる。』

 目の前が真っ暗になった。

 誰にも知られぬよう、ずっと押し殺してきた実妹への、妹へのそれを越えた思い。その全てがあの場にいた全員に知られていた。

 何て事だ!

 じゃあ、今まで俺は今まで、皆に知られていたことを必死に隠し通そうとしてきたってのか?

 じゃあ、じゃあ・・・・・・・!

 あああああああああああああああああああああああああああああああっ!

 何で?何でだ!

 ああっ!

 朔はその両手で顔を隠した。

 顔が熱くてたまらない。

 顔を覆う手は小刻みに震えている。

 この気持ちは何だ?

 羞恥?

 それとも?

 何だ?

 自分だけが知らなかった、孤独?孤立?

 違う。

 俺一人だけが阿呆みたいに踊らされていた、その事実。

 怒り?それとも憎しみ?憎悪?

 わからない!

 わかりたくもない!

 目尻から一筋、熱いものが込み上げてきた。

 涙が一筋頬を伝う。

 惨めだ・・・・・・

 惨めだっ・・・・・・!

 ・・・・・・・・・・・・惨めだ・・・・・・

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ああ、そうか。

 俺は、結局・・・・・・・

 結局、何だ?

 今ふっと頭を掠めた言葉。

 刹那のうちに理解したその言葉の意味、それはすぐに陽炎のようにぼやけ消えていった。

 無意識のうちにそれを無理矢理忘却させた。

 それは防衛本能だったのかもしれない。

 自我崩壊を防ぐ、本能の対処。

 本能。

 その言葉に朔の内側で何かが途切れた。

 目から流れ、手を伝い袖まで濡らしていた涙が止んだ。

『お主が何に拘っているのかは知らんが、そんなもの捨ててしまえば良いではないか。』

 児雷也の言葉。

『今までお主を苦しめ、これからもお主を苛ますものに縛られるより、余程良いではないか。人の道?それにどれほどの意味があるというのじゃ。』

 そうか、そういうことか。

『欲望を、願望を、貪ればいい!貪欲に、吐き気を覚えるまで!禁忌、咎、罪、結構ではないか!禁忌とは穢れ、穢れとは則ち闇!お主に禊ぎなど不要、まして清浄である必要など!正常を装うことに疲れたじゃろう?狂気、良いではないか!身を狂気の炎で焼き尽くす、素晴らしいではないか!』

 その通りだ。

 俺は理性とかいうものを、間違えて持って生まれて来てしまったんだ。

 下らない、そんなものに今まで俺は苦しめられてきたんだ。

 うんざりだ。

 無意味なもの、俺はそれから解放されなくてはならないんだ。

 でないと、俺はっ!

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 ゆっくりと、朔は顔を覆っていた両手を下ろした。

 面を下げたまま、目だけを動かし三人を見る。

 三白眼。赤い瞳が異様に光る。

「本当にそれだけか?」

「えっ?」

 急な朔の言葉に晴海は狼狽えた。朔の言っている意図が図れなかったからだ。

「他に言うことはないのか?」

 朔の口調はいつもの両親に対するものではなくなっている。凄みをきかせた、脅すような物言い。

「他に言うべき事があるだろう?」

 抑揚のない、それでも腹の底から唸るように吐き出される言葉は晴海を圧倒していた。

 晴海は一瞬体をびっくっと震わせると、頻りに目を動かした。自分を威圧する息子の問いへの返答を考えているようだ。

「・・・・・・最近、仕事仕事と言ってきたが、あれは嘘だ・・・・・・夜は禍凶を狩り、休日は内調と打ち合わせをしていた。」

(違う。)

「随分家は裕福だと思わなかったか?」

(違う。)

「もちろん公務員二人の給料でこんな暮らしなんか出来なやしない。・・・・・命を懸けた代償なんだ。」

(違う。そんなことを聞きたいんじゃない。)

「内調、はては裏内閣からの金なんだ。」

(そんな言葉を聞きたいんじゃない!)

「お前を、そして輝更を・・・・・・血生臭い金で育ててきたことを、済まなく思う。でも、私たちがお前たちに出来ることは、これくらいしかなかったんだ。・・・・・許してくれ・・・・・・」

(輝更、そう輝更だ!)

「そんなことが聞きたいんじゃない!」

 耳を劈くほどの朔の叫びは、静まりかえった夜の住宅街にまで響いた。

 今まで顔を下げていたみのりも、腕組みしながら話を聞いていた児雷也も朔の方を見た。

 一番驚いていたのは晴海だった。微塵も動かず、呼吸すら忘れてしまったかのように固まっている。

 息子の鬼気迫る雰囲気に飲まれていた。

「そんなことを聞きたいんじゃない・・・・っ!」

 もう一度、今度は腹から絞り出すようにして声は出された。

 朔は晴海を睨む。

 赤い双眼が晴海の目を射抜いた。

 その時晴海は、我が子の背に神聖と妖魔を同時に見た。

 闇。

 少年の闇を、晴海は見ていた。

「どんな気持ちだったよ・・・・・・・?」

 朔の闇に飲まれていた晴海は、その声に意識を現実に引き戻された。

「どんな気持ちだったんだぁ?」

 語尾の調子を上げながら、朔は幾度目かの台詞を吐き捨てた。

「・・・・・どんな気持ちって・・・・・・?」

 晴海は未だ朔の言っている意味がわからず、恐る恐る息子にその意味を尋ねた。

 その卑屈な態度は親の取る態度ではなかった。

 惨めだ。

 朔は、ふとそう思う。

 腹にどす黒いものが溜まる。

 やがてそれは全身に行き渡り、内側から体を染めてゆく。

 少年の闇はその濃さを一層増す。

 内の暗黒が、叫びとして外側へ吐き出された。

「妹を犯すような餓鬼を育てるのはどんな気持ちだったんだって訊いているんだよっ!」

 叫びと共に朔は立ち上がっていた。

 恐怖を顔に出し、みのりと晴海は朔を見上げていた。

 絶句している。

 まさかそんなことを言われるとは思ってもいなかったようだ。

 怯えた様子のままの二人に対し、朔は追い打ちをかけるように叫び続ける。

「ふざけるな!ふざけるな!ふざけるな!妹を犯すんだぞ、意味わかってんのかよ!どんな気持ちだよ、鬼畜な兄と哀れな妹を育ててきた気分はよぉ!」

 思い切り朔は二人の前のテーブルを叩いた。

「なんで産んだんだよ、輝更を!俺が冥王だかなんだかって知ってたんだろう!何で産むんだよ、妹なんか!俺が、どうなるか知ってて、何で!何で産んだんだ!お前等が俺を、輝更を産んだ所為で、俺は輝更を犯すんだ!輝更は俺に犯されるんだ!あぁぁぁぁっ!・・・・・・・・あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!どんな気分だ!俺を、輝更を甘やかしてきたのは、哀れみか!同情か!それとも償いのつもりか!ふざけんな!ふざけんなよ!」

 頭の片隅で、無茶を言っているのはわかっていた。自分を産んだ二人に罪はない。でも、それでも輝更を産んだことは許せなかった。

 その怒りが、吐き出される言葉に歯止めを掛けることなく、むしろ加速させてゆく。

「ナニやってんだよ、避妊しろよ馬鹿野郎がぁ!お前等の下らない排泄欲の結果がこれかよ、何だよ、何なんだよぉ!」

 そこまで言い終え、朔は大きく息を吸う。そして小刻みに呼吸を繰り返した。

 ふと、我に返る。

 晴海は唇を噛んでいた。一筋赤い血が伝っている。

 みのりは耳を塞ぎ、身を震わせて静かに嗚咽を漏らしていた。

 どす黒い感情が拡散し、消えた。

 全身の力がふっと抜ける。

 朔はもう醒めていた。

「もういい・・・・・・」

 朔の呟きに反応する人物はいない。

「もういいよ・・・・・・・」

 朔は重苦しい空気に耐えられず、そこから逃げ出すように階段を駆け上がっていった。

 朔がいなくなった後も、誰も口を開くことはなかった。



 あれからずっと晴海やみのりと言葉を交わしていない。

 食事の時間はずらし、何か言いたげの二人をずっと無視している。

 輝更がそれをずっと気にしているようだったが、今の朔には彼女を気遣うほどの余裕は無かった。

 学校もあれからずっと休んでいる。行く気にはなれない。

 燎士や百合子、翼に会いたくなかった。

 毎日毎日リビングのソファーに寝そべりながら、煙草の煙を吐き続ける。

 もうどうでも良かった。

 何もかも。

 ・・・・・・

 誰彼として望んで生まれてきた者なんかいない。

 それでも大部分の人間はその誕生を呪うことなく、日々安穏と生きている。

 自分もそれで良かった。

 別に自分の人生に多くを望んでいたわけじゃない。

 いつか、輝更への思いを思春期における気の迷いだったと言える日が来ることを望んでいた。

 それだけだ。

 たったそれだけだった。

 それなのに。

 それなのに、なんだろう。

 どうしてこうなった?

 輝更を手に入れることは出来るらしい。

 それでも・・・・・・

 その後で自分は一体何を失うのだろう。

 良き兄としての像か。

 それとも、輝更からの思慕の情か。

   道徳心か。

 人間性か。

 良心か。

 理性か。

 もっとも、そんなことはどうでもいい。

 もっと、何か大きなものを失うような気がする。

 それは何か。

 輝更だろう。

 輝更を、輝更自身を。

 きっと失うだろう。

 手に入るのは一瞬だけ。

 そして、永遠に彼女を失うのだ。

 耐えられない。

 それだけは耐えられない。

 ・・・・・・・

 長くなった煙草の灰が服の上に落ちた。

 しかし朔は払う気にもならなかった。



「ただいまぁ。」

 午後四時過ぎ、輝更の声が玄関に響いた。

 彼女は今日、昼から友達と平良の方へ行っていたのだ。

 しかしその声に答える者はいない。

 朔はリビングで煙草を吸ったまま。

 晴海やみのりは朝から出かけている。

 爺や両親の言う事を信じれば内調との打ち合わせ、と言う事になる。

 朔の真っ赤なラバーソウルだけが置かれた玄関で、しばらく服を払う微かな音が続いた。

「最悪だよ、電車に傘忘れて来ちゃった。」

 そう言いながら輝更はリビングの戸を開いた。

 長い、金色の髪がしっとりと濡れている。

 傘を忘れて、濡れて帰ってきたらしい。

 服を払っていたのは、そのためだった。

「また・・・煙草吸っているんだ・・・」

 呟いた輝更を、朔は目だけ動かして捕らえた。 

 白い、袖の長いワンピースが肌に密着している。

 うっすらと、下着が透けて見えた。

 靄のかかった頭が、ある一言を思い出す。

 白い肌が、濡れて綺麗だった。

 犯せ。

 鼓動が早まる。

 犯せ。

 煙草の火を消した。

 犯せ。

 腹の底に、ヘドロのように溜まったソレが蠢き出す。

 犯せ。

 何か、黒いものが全身を巡る。

 犯せ。

 意識は暗い。

 犯せ。

 止まらない。

 犯せ。

 本能。

 犯せ。

 悪意。

 犯せ。

 狂気。

 犯せ。

 闇だ。

 ここは闇だ。

 お前は、俺を照らしてくれるか?

 闇に俺が消えぬよう。

 お前は、俺を必要としているか?

 お前は・・・・・・・

 俺を受け入れるか?

「お兄ちゃん?どうしたの?」

 輝更が怯えた声で言った。

 ゆっくりと、朔はソファから立ち上がっていた。

 彼の者の眼は深紅。

 紅い、紅い狂気の灯。

 そして、反復し続ける単語は遂に文となった。

 輝更を、

 犯せ。

「おにい、ちゃん・・・・・・・?」

 幼い少女の声には、確かに恐怖が込められていた。






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