第四章 目覚めよ、と声がする
I hear someone says to me wake up
「目覚めは苦痛か?それとも、眠っていたことが苦痛か?」




「ん?目標、動きますね。」

 日が完全に沈み、夜の戸張が下りたというのに未だサングラスをした男が呟いた。

「どうします、瑞希さん?」

「グレイ。」

 女は小さく溜息をついた後、咎める口調で小さく言った。

「あ、すいません。どうします、ブルー?」

 回りで聞く者がいれば首を傾げるであろうやり取りを、二人は機械の積まれた車内で交わしていた。

「もちろん追うわ。」

 ブルーと呼ばれた女はすぐに答えた。

「またですか?どうせいつもの“あれ”ですよ。」

 サングラスを掛けた男がそれをずらして言った。目元が柔和な、人の良さそうな顔をしている。

 彼の言う“あれ”とは、バイク乗りたちの集会のことである。たまに夜中に集まっては、純粋に速さを競い合うキャノンボール式のレースを繰り広げるのだ。

 最近毎晩と行われる心臓に悪いレースに、彼は辟易としているようだった。

 だが、女はそんな男の気持ちを知ってか知らずか、淡泊に返事を返した。

「昼間のことがあるわ。追うわよ。」

 静かだが、有無を言わせぬその言葉の調子に、男はがっくりと肩を落とし目的の人物が出てくるのを待った。



 輝更はもう寝てしまい、起きている者は自分しかかいなくなった家を朔は出た。

 時刻は午後十一時。まだ両親は帰ってきてはいなかった。

 朔は革製の上着を纏い、バイクへと跨った。

 今日の目的地はいつもの廃工場連ではない。大浜、臨海工場地区だ。

 静まりかえった夜の住宅街にエンジン音を響かせながら、朔のバイクは走り出した。

 疎らになり始めた家の明かりと、全てに明かりがともった街頭の残像が目尻に残っては消えてゆく。スピードはぐんぐんと上がっていった。

(・・・・・・)

 朔の頭は、まだ混乱していた。

 あの暗い闇に響いた児雷也の言葉が、朔の頭の中でリフレインしていた。

『輝更を犯せ、朔。』

(・・・・・・) 

『輝更を犯せ、朔。』

(・・・・・・)

『輝更を犯せ、朔。』

(・・・・・・・・・・・・)

『輝更を犯せ。』

(・・・・・・・・・・・・)

『キサラヲオカセ。』

(・・・・・・・・・・・・)

「犯せ。」

 朔が静かに発した言葉は、風に掻き消される。

(・・・・・・・・・・・・)

 朔は釈然としない思いを抱きながら、夜の街を駆けてゆく。

 自分を追う存在に気付くことなく。



 今日の夕方、社の地下で児雷也の発した言葉。

 それは朔の頭を強く揺さぶった。

 幾度と無く思った欲望、しかしまさか他人から言われるなどと思ったことはなかった。

「・・・・・・何を、言っているんだ。」

 朔がようやく出したのは、たったそれだけの言葉だった。

「聞こえなかったか?犯せと言ったのじゃ、輝更をな。」

 児雷也はさも当然とでも言いたげな顔で、あっさりと言ってのけた。

「言っている意味がわかっているのか!」

 朔は怒りに声を張り上げて言った。大声は空洞の中に響き、自分の声に鼓膜が破れそうだった。

 朔は、なぜ自分が怒っているのかわからなかった。

 自分の欲望を、他人が代弁した。

 ただそれだけのこと。

 だが、それは決して許せなかった。

「犯せだと?ふざけるな!」

 響く自分の声に耳を痛め、顔を歪めながら朔は叫び続けた。

「輝更は妹だぞ、義理なんかじゃない、血の繋がった妹だ!どういう事だかわかっているのかよ!」

 僅かな希望に縋るように、市役所に行ったことがあった。

 そしてそこで、朔はその思いを永遠に押し殺すことを誓ったのだった。

「近親姦だぞ!犯罪だ!いや、それ以上に、人の道を踏み外せってのか!」

 輝更に兄妹以上の気持ちを抱き始めたのはいつからだったか、それ以来自分が過ちを犯しそうになるのを止めたのはその罪の思いだった。

 今まで自分を苦しめてきたもの。しかしそのおかげで道を誤ることもなかった。

「ふざけるな!」

 そんな自分の今までを否定するような言葉、自分がそれに怒っていることに気付き、朔は再び叫んだ。

 何度も叫んだせいで息が上がり、朔の咆哮は止んだ。

 空洞に先程までの声が木霊している。

「そこまでむきに成ることも無かろう。」

 ふう、と息を出し、児雷也は言った。

「お主が何に拘っているのかは知らんが、そんなもの捨ててしまえば良いではないか。」

「・・・・・何だと?」

 肩を上下させながら朔は児雷也を睨む。

「そんなもの捨ててしまえば良い。それ以上のものを得られるのじゃからな。そうじゃろう、朔。」

 児雷也は朔の顔を覗き込むようにして言った。

「今までお主を苦しめ、これからもお主を苛ますものに縛られるより、余程良いではないか。人の道?それにどれほどの意味があるというのじゃ。」

 児雷也が静かに、淡々と、諭すような口調で言う。

「お主は普通の人間とは違う。選ばれた人間、神の眷属、ましてや創造神の魂を受け継げし者なのじゃ。王者なのじゃよ。」

 暫しの間があった。児雷也のがらがら声が木霊す。

「人として生きることに、どれほどの意味があろう?下らぬ、実に下らないではないか。抑圧と、諦めの日々の蓄積としての人生、それが人じゃ。その様なもの、お主には似合わぬよ。思うが儘に生き、心の命ずる儘に動く、お主にはその方が相応しい。」

 児雷也は両手を広げ、高々と叫んだ。

「欲望を、願望を、貪ればいい!貪欲に、吐き気を覚えるまで!禁忌、咎、罪、結構ではないか!禁忌とは穢れ、穢れとは則ち闇!お主に禊ぎなど不要、まして清浄である必要など!正常を装うことに疲れたじゃろう?狂気、良いではないか!身を狂気の炎で焼き尽くす、素晴らしいではないか!のう、朔!」

「・・・・・・」

 児雷也の言葉が反響し、耳へと届く。染み込むように、脳へと伝わる感覚。朔は頭を振り、児雷也の言葉に自らの心が揺らぐことを堪えた。

 朔は煙草を取り出し、吸い始めた。

(しぶといのう・・・・・・仕方在るまい・・・・・・) 

 朔の煙草の火を見ながら児雷也は思った。

「信じぬ、か。」

 児雷也は呟くように言った。

「・・・・・・当たり前だ。」

 朔の返答に、何度かの溜息を児雷也つき、そして言った。

「先程儂の力を見たであろう?」

「手品か・・・・・・何かだろ・・・・・・・」

 朔が煙草を吸う度に、火が僅かに大きくなる。

「なるほどのう・・・・・・。では、否定できぬ現実を見せてやろう。」

 児雷也はどこか諦めを含んだような声で言った。

「今夜、そうじゃな、十一時過ぎぐらいじゃ。大浜の臨海工場地区、貨物置き場に来ると良い。そこでお主は自分の宿世を知るであろう。」

「行くと思っているのか?」

「ほう?信じてないのなら来られるじゃろう、朔?」

「・・・・・・」

(少々手荒じゃがのう・・・・・)



 安い挑発だったと思う。

 しかし啖呵を切ってしまった以上、行かないわけにはいかない。

『行ってやろうじゃねえか!見せてみろよ、シュクセってやつをな!』

 児雷也の言葉に対し、大声をあげていた自分に苦笑しながら、朔はアクセルを握る。

 百キロに達した朔のマシンは、廃工場連への脇道には入らず立花町への坂を猛スピードで疾走していった。



「あれ?曲がりませんでしたね。」

 サングラスとヘッドホンを外した男が、前を走る黒いバイクを見ながら言った。

「臭うわね・・・・・」

 ハンドルを握り、百キロを超えて走る目標を見失わぬようアクセルを深く踏み込んでいる女が答える。

「何か、あるんですかね・・・・・・・」

「それを監視するのが、私たちの仕事よ。」

 男の問いに、女は静かに言った。

 夜の街を、黒色のバイクと外車が通り過ぎて行く。



 空は分厚い雲に遮られ星一つ見えない。

 それでも、辺りの街灯のおかげか自分の回りは一応見えた。

 大浜、臨海工業地区貨物置き場。

 東北でそこそこの規模を誇る港を持った大浜には、漁船からタンカーまで様々な船が停泊している。

 ここは、港から少し行ったところだ。

 工場に運ばれる、または運ばれてきた荷の集まるところ。

 コンテナが二、三積まれており、間に挟まれるようにして立つと圧迫感がある。

 朔はそんなことを思いながら貨物置き場を奥へと進んでいた。

 バイクを入り口において歩き出し、二、三分たとうとしている。

(貨物置き場って言っても・・・・・広いっての・・・・・・・どこだよ、糞爺が・・・・・・・・)

 詳しい場所を言わなかった児雷也に、頭の中で悪態をつきながら朔は歩いていた。

 特になんの変哲もないところを歩いている。そう思っていた。

(・・・・・・?)

 海が近くなったのか、潮の香りが強くなったと思ったときだった。

 朔は、何か不思議な感覚を覚えた。

 何かの境界線を越えた感覚。

 朔は振り返った。が、特に何もない。

(・・・・・・・・何だ?)

 いつか感じたことのある感覚。朔はそれがいつのことだったか思い出そうとした。

(昨日、廃工場の中で感じた感覚と似ている?)

 昨日、輝更と共に廃工場へと行ったときに一瞬感じた不快感を思い出す。

(違う、よな。嫌な感じはしない・・・・・むしろ・・・・・・・)

 朔の頭に、新たな記憶が浮かび上がる。

(今日、あの空洞に入ったときの感覚か?)     

 朔の思考がそこまで行き着いたとき、聞き慣れた声が彼の名を呼んだ。

「サク。」

 声の方を朔は向いた。髭面の坊主頭、筋肉質な体。見慣れた人物が立っていた。

「リョウさん・・・・・・」  



「・・・・・・」

「・・・・・・」

 黒いバイクが大浜の臨海工業地区の貨物置き場前に止められている。

 二人の男女が、バイクから少し離れたところに車を止めていた。

 車内には緊張感を伴った重苦しい雰囲気が漂っている。

「もしかして、ここ・・・・・・」

 沈黙を破り話し始めたのは、ヘッドホンを片耳だけにつけた男の方だった。

 回りには全く人影がないためか、男はサングラスを外している。

 男は横目で隣に座る女を見た。

 女は目を瞑っている。

 男は静かに息を呑む。

「搦手たちは、今夜ここに集まっている・・・・・・」 

 女は静かに言った。

「・・・・・・」

 車内に再び沈黙が訪れる。

 ヘッドホンからは足音だけが聞こえる。

 長い時間が過ぎたように男には思えた。

「あれっ・・・・・・」

 再び沈黙を破ったのも男の方だった。

 不意に彼の耳に届いていた音が途切れたのだ。

「どうかした?」

 女は目を開き、鋭さのある声で言う。

「音が・・・・・・」

「途切れたのね。」

 男は女の目を見ながら頷く。

「偶然?それとも・・・・・・・」

 女の視線は虚空を射抜く。

「仕組まれているの?」  



 あの日、少年は校舎にもたれかかりながら座り込んでいた。

 夕暮れ時の、校舎裏。

 昼間の喧噪が嘘のように静まりかえった空間。

 赤い日に照らされた少年は、血まみれの顔をしていた。

 鼻血を流し、顔は真っ赤に腫れ上がっていた。

 最早動かなくなった少年を、彼より一回りほど大きな少年達がいたぶっていた。

 少年はアコースティックギターの音色を思い出す。

 心に染みる、慰みの歌を。

 やがて、端の切れた口で歌いだした。

 殴られる度に、歌は途切れる。

 それでも止むことはなかった。

 ・・・・・・・

 少年が歌い終える頃には、暴行は終わっていた。

 少年は静かに目を開けてみる。

 三人の少年が、蹲って悶えていた。 

 一人の少年が、真っ赤な手をして立っていた。



「何でリョウさんがここにいるんだ?」

 朔は何も言わずに歩き出した燎士の背に声を掛ける。

 しかし燎士は黙々と歩くだけだった。

「リョウさん。」

 燎士の手にはいつもバイクに乗るときのものとは違う、何かのマークが描かれた手袋をはめていた。

「リョウさん・・・・・・」

 燎士の後を歩きながら、朔は何度か声を掛けた。

 しかし燎士は答えることも、立ち止まることもなかった。

「リョウさん!」

 ついつい荒くなった声が夜空に響く。そしてようやく燎士が立ち止まり朔の方を向いた。

「着いた。ここだ。」

 両脇に積まれていたコンテナはなくなり、急に視界の開けたところに燎士は立っていた。

 彼の背の向こうに、真っ黒な海が見える。

 空は暗く月も星もない。海は人工の明かりを受け、不気味な色をしていた。

「着いた・・・・・・?」

 朔は燎士の言った意味が分からず、彼の言葉を繰り返した。

「どういう意味だ?」

 朔がその意味を問うた時だった。

「サクっ・・・・・・」

 これも聞き慣れた声だった。

 声のした方には晴海、みのり、そして幾人かの人間が屯していた。

「親父・・・・・・・お袋・・・・・・」

 なぜ、朔がそう言おうとしたのと同時に、晴海の叫びが響いた。

「どういうことですか、翁!」

 叫びの先には児雷也がいた。

「どうもこうもない。そろそろ目覚めてもらなわくては困るんじゃよ。それはお主もわかっているはずじゃ。」

 地雷也の声は静かだったが、それは威圧感を含むものだった。気圧された 晴海は何も言えなくなり黙る。

 話す者はいなくなり、波と風のみが音を立てる。

「・・・・・・」

 話が飲み込めない朔は屯していた人間の顔を見た。

 知らない人間もいたが、知っている者もいた。

「弓削・・・・・・・」

 腰まで届く黒髪を風に靡かせ、イタリア製の細身のコートを身に纏い、彼女は立っていた。

 朔の方を見ることなく、百合子は地面ばかり見ている。

 その脇に立っていた翼が、自分よりも背の高い少女の肩をそっと抱く。

「委員長までいるのか・・・・・・」

 朔の声は夜の海によく響いたが、翼は何も言わずに朔の目をじっと見ているだけだった。

「うっ・・・・・うっ・・・・・・うっ・・・・・」

 再び訪れた静寂を破ったのは啜り泣く女の声だった。

「お袋・・・・・・」

 みのりが晴海の胸に顔を埋めている。

「何が・・・・・・どうなっているんだ・・・・・・?」

 朔の消え入る様な声にあわせ、児雷也が一歩前に出た。

「ここにいる者たちは搦手。お主が率いる者達じゃ。」

「搦手・・・・・・・・」

「ついて参れ。認めさせてやろう、お主の逃れられぬ宿世をな・・・・・」

 そう言うと児雷也は朔の脇を通り過ぎていった。

 朔はその背を目で追った。老人の姿は闇へと消え入りそうになっている。振り向くと、皆一様に朔の顔を見ていた。

「・・・・・・」

 朔はその視線から逃れるように児雷也の後について歩き出した。

「遂に、この時が来てしまったんだな・・・・・・」

 二人の姿が見えなくなると、晴海は静かに呟いた。未だみのりは泣き止んでいない。

 晴海は妻をそっと抱きしめると、暗い空を仰いだ。



 朔は児雷也の後ろを歩いていた。

 聞きたいことは幾つもあったが、老人の背はそれを拒んでいるようで何も言えなかった。

 晴海達と別れてどれくらいの時間が経ったのだろう。大した時間ではなっかたのだろうが、朔にはそれが永遠にも似た時の流れのように感じられた。

 周りには積み上げられたコンテナの代わりに倉庫が幾つも連なっている。

 星々は未だ厚い雲に覆われているのか、空は全くもって暗い。しかし海は不気味に光っていた。

 先刻、あの場所にいた人々の顔が朔の脳裏にこびり付いて離れなかった。

 百合子、晴海、みのり。三人は酷く悲しげな顔を見せた。

 翼、彼女の目に宿っていたあの光は何だったのだろう。

 憎しみ、それとも蔑みか。

 朔には判断が付かなかった。

 燎士は、一体あの時どんな顔をしていたのだろう。

 そちらを見なかったので、何とも言えない。

 そのほかの人間は・・・・・・

 まるで汚いものを見るような目だったように思える。

 何故?

 なぜ・・・・・・・

「朔よ。」

 児雷也に呼ばれ朔の思考は中断された。児雷也がこちらへと向き直っている。

「この中じゃ。お主はここで目覚める。」

 児雷也の目線の先には周りと同じような倉庫があった。別段、変わったところはない。

「恐れるな。怯むな。省みるな。迷うな・・・・・・目覚めれば、全ては小さきことじゃ・・・・・・」

 朔は児雷也の目をじっと見た。皺だらけの顔に、唯一精気を放つ双眼は決して視線を逸らそうとはしない。

「・・・・・・」

 朔は無言のまま閉じられたシャッターの前に立った。

 児雷也は満足げに頷くと、屈んでくぐれる分の高さまでシャッターを上げた。

「・・・・・・」

 わからないことが多すぎる。

 不可解なことが多すぎる。

 納得出来ないことが多すぎる。

 いつもなら、そんなことは無視してきた。

 足掻いたところで無駄なのを知っていたから。

 それに、知らなくとも生きてこれた。少なくとも、これまでは。

 しかし、今はどうだろう。

 耄碌爺の妄言から始まり、負の感情を秘めた人間達の目。

 知らなくともいいはずだ。

 なのに、何故自分はここにいるのだろう。

 そして、何故踏み込もうとするのか。知らなくともいいはずの領域に。

「・・・・・・・」

 今までは、自らに関係がないから受け流してきた。

 しかし、今回はどうも俺が絡んでいることらしい。

 だから、俺は知りたいんだ。

「・・・・・・」

 いや・・・・・・

 違うか。

 きっと・・・・・・・

「・・・・・・」

 朔は身を屈め、暗い倉庫内へと入っていった。

 もう自分にはどうしようもないんだ。

 ただ・・・・・・・流されるだけだ・・・・・・。



 倉庫の中は暗かった。唯一入ってくる外の明かりは児雷也がシャッターを下ろしたことで完全に遮断された。窓らしきものはあったが、木材か何かが打ち付けられているのか一筋の光すら射し込まない。

 完全な暗黒。

 そこには大して何もなかった。

 元々倉庫だったところが、使われなくなったのだろう。隅々に誇りが溜まっているのがわかる。

 勿論見えはしない。ただわかるのだ。

 朔はそんな何もない四角形の倉庫の中で身構えていた。

 入った瞬間に感じた猛烈な寒気。全身に鳥肌が立った。

 昨日、輝更と共に行った廃工場、あそこで感じたものと同じだと朔は確信した。

 嫌な感じだった。

 じっと、誰かに見られているような感覚。しかしこちらからは全く見えない。

 息が詰まるようだった。

 口内はすでに乾ききっており、朔は唾を絞り出すようにして飲み込むと、誰もいないはずのそこで何かに向かって吼えた。

「出てこい!俺は・・・・・・ここにいるぞ!」

 その瞬間、朔は自らの目を疑った。

 倉庫の隅の方で、何か黒いものが蠢いた。

 あたりの闇よりも遙かに暗いソレは、蠢きながら少しずつ大きくなっていく。

「なっ・・・・・・」

 朔は目の前の光景に絶句していた。

 黒い物体は徐々に大きくなり、今は既にサッカーボール程度はある。

 ぬるぬるとした質感に朔は吐き気すら覚えた。“悪夢”の甘美なフラッシュバックどころではない。

 蠢きながらどうやら物体は体を形成しているようだった。サッカーボールから翼らしきものが生えてきているのが認識できた。

「・・・・・・」

 目に映る、あまりに醜い存在に朔は明らかに嫌悪を感じていた。

 物体はそれでもぐにゃぐにゃと動きながら己の体をかたどってゆく。ボールの中心にあらわれた隆起はおそらく口となるのだろう。

 そして、形成が一段落したのか物体は蠢くことをやめた。

 朔の目はじっとそれを射抜いている。

 物体は、暗い闇を放った。

「うっ・・・・・・」

 醜悪の一言だった。

 サッカーボールはまるでナメクジのような皮膚で、口は蝙蝠のそれだった。

 体が裂けるぐらいに大きくその口を開くと、先の割れた蛇の舌を出しながら奇声を上げた。まるで黒板を引っ掻くような不快な音。

 声と共に物体は翼を広げる。毛の生えていない、鳥の翼。羽ばたく度に血管や筋肉の収縮が見て取れる。薄紫色の肉が明らかに生物のそれではない。

 そして、何度目かの羽ばたきによって遂に宙に浮いた物体の口の上の部分に皺がよった。

 物体が再び奇声を上げる。

 皺の中からナメクジの部分のほとんどを占めるほどの巨大な目が現れた。充血したそれがぎょろりと朔を見る。その視線を受けただけで朔は吐きそうだった。

 物体が三度、耳を塞ぎたくなるような奇声を上げる。

 倉庫の床のそこら中で黒い蠢きが始まった。

 否、床だけでない。

 天井、壁、中には空中でも物体が体を形成し始めていた。

「これが・・・・・禍凶・・・・・・なのか・・・・・?」

 気色の悪い、生物とは言い難い、生き物の部分を集めたような物体に囲まれ、朔は絞り出すように声を発した。

「こんな奴等、俺にどうしろってんだ・・・・・・」

 既に朔の周りには物体が数十体飛び回っていた。



「まさかあんたが連れてくるなんてね。」

 コンテナに背をあずけた体勢で、翼は隣に立つ燎士に言った。

「以外だったね。あんたはずっと反対すると思ってた。」

 言ってから横目で燎士の顔を盗み見てみたが、目を瞑っており表情は読みにくい。

「・・・・なんか言ったら?」

「言うことは何もない。」

 燎士の返事は非常に短いものだった。明らかにこれ以上の会話を拒む意志が込められている。

「あんた、それでいいの?従兄弟で、親友なんでしょ?斑愈回っていったら、最後はきっと・・・・・・・」

「お前はあいつが目覚めてないことに苛ついていたじゃないか。今更なんだって言うんだ。あいつは今夜目覚める。俺達の、新しい王の誕生だ。それだけだろう。」

 翼が言い終わるよりも早く、燎士は言葉を放った。

「でもっ!」

「でも、何だ?解らない奴だな・・・・・・今まであんだけあいつのこと嫌っていたのに。」

 目を見開き翼の方を向いた燎士の顔は、怒気を伴うものだった。話を終わらせようとしている自分の意図を無視し、無理に続けようとすることへの怒りか、またはそうでなかったのか。ともかく燎士は声を荒くして言った。

「それとも、他意でもあるのか?」

「ふざけたこと言わないで。私は・・・・・・」

「弓削一筋、ってか?」

「・・・・・あんたに言われたかないね!」

「言葉には気を付けろ。」

「はっ、あんたはいっつもあいつのことばっかりじゃない!」

「それは・・・・・・」

「変態野郎!」

 ぼうっ、と音がした。炎の立てる音だ。

「黒焦げになりたいのか?」

 燎士が、紅蓮の腕を翼に見せる。

 炎を纏った拳。

「じゃあ、あんたは切り裂かれて刺身にでもなる?」

 翼はそれに対し指を揃えた手を胸元に翳した。ひゅんひゅんと風切り音がそこから発せられる。

 二人の周りの空気が緊張し始めた時だった。

「おっと、イッショクソクハツってやつっスかね。」

 金髪の少女が気の抜けた声を出しながらやってきたため、二人は構えを解いた。

「別に、そんなんじゃないわ。」

 翼は短い髪を掻き上げながら燎士の脇を後にし、金髪の少女、真由の横を通り過ぎた。

「・・・・・・」

 去ってゆく翼に燎士は何も言わなかった。翼の代わりに真由が何か言ってきたが、それは全て聞き流した。



「・・・・・・」

 燎士と話していた一角から出ると、目の前に翼と同じくらいの背の少年が立っていた。

 翼はその少年を無視して歩こうとした。しかしその側を通ろうとしたとき、少年の方から声を掛けられた。

「あいつ、今頃“屑”と戦ってるってさ。」

 二人に身長差はないが、少年の声はまだ変声期を迎えていないようなものだ。明らかに翼よりも年下であろう少年は、爪を噛みながら言った。

「誰から聞いたの、大地。」

 無視しようとしていたが、大地という名の少年の言葉が気になり翼は自分からも声を掛けた。

「児雷也の爺さん。」

 大地と呼ばれた少年は相変わらず爪を噛みながら答えた。

「“屑”、か。確かに雑魚と言えば雑魚だけど・・・・数が多すぎるんじゃ・・・・・・」

 翼は今頃朔がおかれているであろう状況を思い浮かべ、顔を顰める。

「心配そうな面だな。燎士の言ったこと、まんざら嘘でもない・・・・・・」

 大地はにやにやと下品な笑みを浮かべながらからかうように言った、が途中何を見たのか、視線をじっと翼の背に向け固まったように口を開けたまま何も言わなくなった。

 気になって翼は振り向いてみた。

「ユユ・・・・・・」 

 百合子は翼が振り返ったのと同時に、先刻朔が児雷也と共に消えた闇に向かって走り出していた。



「くそっ、来るんじゃねぇ!」

 朔は黒い物体、通称“屑”によって囲まれていた。屑達は耳障りな声を上げながら朔を威嚇するように側を飛び回っている。

「くそっ、くそっ!」

 朔は両腕を振り回し、屑を寄せ付けぬようにするのが精一杯だった。屑達は朔の腕を気色の悪い羽を羽ばたかせながら、器用に避けながら飛び回る。

 屑達に囲まれじりじりと朔は後ずさる。背にはじっとりと汗が溢れていた。

 屑は縦横無尽に飛び回り、朔の背後からも突進してくる。背を取られぬよう壁際によった朔は、もう既に隅へと追いつめられていた。

「キィィィ!」

 一際甲高い声を発し、一匹の屑が突っ込んでくる。

「くんじゃねぇ!」

 腹から絞り出すように声を出し、大きく腕を振る。

 振り下ろした手が屑に思い切りぶつかった。

 ぐしゃりと耳に残る不快な音を立て、屑の体は見事に破裂しする。血らしき体液が飛び散り腐敗臭を放つ。地面に落ちた体はぐちゅぐちゅと腐敗してゆくように消えていった。

「うっ・・・・・げぇぇぇぇっ・・・・・・」

 とうとう耐えきれなくなり朔は嘔吐した。見た目の気持ち悪さや異臭もさることながら、偶然とはいえ触れてしまった屑の体皮は想像以上に不快なものだった。

 ぬるりとした質感に、爬虫類の冷たさのする弾力感。

 そして生ぬるい体液・・・・・・

「はぁ、はぁ・・・・・・げぇぇ・・・・・・ぇぇぇっ・・・・・」

 食道を逆流する胃液によって肺のあたりが圧迫され、呼吸が止まる。そして再び襲いかかる嘔吐感。

 朔は苦しさに涙を流しながら胃の中のものを全て吐き出そうとしていた。

 そのときだった。

「キィィィ!」

 仲間が一体やられた為か、威嚇行為を止めていた屑の一体が朔に向かって飛びかかってきた。

「がぁっ!」

 丁度前のめりになっていた朔の右肩に屑が噛み付く。鋭利な牙が衣服や肌を貫き、筋肉に突き刺さる。

 一瞬だがちゅうちゅうと、何かを吸引する音がした。

 朔は今まで感じたことの無い程の苦痛に対し、獣の如き咆吼を放ち、左手で屑を払おうとした。

 が、しかし、朔の肩に噛み付いていた屑はその直前に口を離す。

 結局朔が触れたのは指先だけだった。が、それでも再び嘔吐感を感じるには十分な不快さだった。

「ううっ・・・・・・げぇぇっ・・・・・・ぇぇっ・・・・・いてぇぇ・・・・・」

 嘔吐の苦しさに加え、肉を噛まれた苦痛により朔は嗚咽を漏らした。大粒の涙が無意識ながら零れてゆく。

 対照的に朔に噛み付いた屑は上機嫌に宙を舞っていた。血まみれの口を開きながら他の屑達とはまた違った甲高い声を上げて飛び回っている。

 彼らは人の生き血と共に、その精気を啜る禍凶だった。

 一際高いところを飛び回る屑をその巨大な目で見た屑達は、それで朔の精気の味を察したのだろうか。一斉に朔を見る。

 朔は苦痛に顔を歪めながらその視線を受けていた。左手で右肩を押さえ、右手で体重を支える格好となっている。右手には屑に触れるのとはまた違った不快感を感じていた。肩を噛まれて前に倒れそうになるのを支えたその手は、自分の吐瀉物を押し潰していた。

(惨めだ。)

 足が震え、今にも失禁しそうな恐怖に耐えながら何故か朔はそう思った。

 屑達が体を朔の方へと向ける。

(こんなところで死ぬのか?)

 脂汗が背中を伝っていった。歯がぶつかり合いがちがちと音を立てる。

 屑達は一斉に声を上げた。

(嫌だ。)

 全てはコマ送りのようだった。

 屑達が裂けんばかりに口を開き突進してくるのが見えた。

(嫌だ。)

 一斉に襲いかかってきたそれにより、朔の視界は屑で埋め尽くされる。

 朔の目は恐怖で見開かれた。

(嫌だ・・・・・・・・!)

 意識が闇に飲まれ、視界が暗転した。

 “悪夢”のフラッシュバック。

 白い肢体が脳裏に焼き付くようだ。

 胸のあたりがかーっと熱くなる。

 胸のあたりで起こった熱が、全身へと伝わってゆく。

 指先から、頭の天辺、そして爪先まで。

 あまりの熱さに朔は口を開いた。

 何かを叫ぼうとする。が、声が出ない。

 目が、めいいっぱいまで開かれる。

 充血した白目と、深紅の瞳。

 熱さに悶え体は反り返る。

 声は出ない。

 周りは全て闇。

 闇?

 そう、闇だ。



 真っ暗な闇の中。

 札の付いた岩が地面へと突き刺さっている。

 静かな空間に、ひっそりとそれはある。

 一瞬、小さな音がした。

 そして、岩の突き刺さる地面の亀裂が増えた。



「がぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっ!」

 遂に声が発せられた。

 咆吼と共に朔の周りの床から幾本もの闇が伸びた。

 闇は鞭のように撓り、屑達に襲いかかる。

 闇は鋭利な刃物と化し、今当に朔に噛み付こうとした屑達を貫いた。

 意識は元に戻っていた。

「おぉぉぉぉぉ!」

 朔はさらに声を荒げ叫ぶ。それに呼応し闇の刃は屑を追尾し串刺しにしてゆく。

 仲間が次々とやられたことに恐れをなしたのか、からくも闇の刃を逃れた屑達は一気に朔と距離を取った。

 最後に貫いた屑が動かなくなり、腐敗臭を出しながら消えてゆくのを確認すると、朔はゆっくりと刃を闇へと戻した。

 そして、右肩に当てていた手を離すと静かに立ち上がった。

「ひっ・・・・・・ひひひひっ・・・・・・・・・」

 俯いているため表情は見えない。おそらくは笑い声であろう朔の声は倉庫に響く。

「ひゃっ・・・・ひひっ・・・・・・ひゃはっ・・・・・・はははっ・・・・・・」

 肩の揺れは次第に激しくなり、笑い声も大きくなってゆく。

「ははっ・・・・ははっ・・・・・・・・っ・・・・・・・」

 笑いが一旦途切れ、朔は面を上げた。

 深紅の双眼が見開かれ、煌々と狂気を秘めて輝いている。

「ひゃーっはっはっはっはっぁぁぁ・・・・・・ひゃーっはっはっはっぁぁぁぁあぁぁ!」

 裂けんばかりに口を広げ、狭い倉庫内で声が反響するのもお構いなしに朔は高らかに笑い続ける。

 今度は屑達が恐怖を感じているようだった。

 自分たちよりも、より濃き闇。

 より深き闇。

 より、危険な闇。

 本能がそう感じたのか、屑達は目の前の凶人から逃れようとした。出てきたときとは逆に、一斉に闇へ溶けようとする。

「逃がすかぁぁぁぁぁ!」

 朔は目を見開いたまま、大きく右手を振り上げた。

 腕が周りの闇を纏い、黒ずみ、異形へと変わってゆく。

 腕は二倍以上、指は三倍以上にまで伸び、何匹もの屑をまとめて切り裂いた。

 びちゃびちゃと地に落ち、泡を立てながら切り裂かれた屑達が消えてゆく。

「けひゃ・・・・・ひゃひゃひゃひゃ・・・・・・」

 闇を払いながら元に戻した手を口元に翳す。腐敗臭が鼻を突いたが、朔は構わず指にべったりと付いた屑の体液を舐めた。

「不味い・・・・ひゃははっ・・・・・・・はっはぁっ!」

 一通り舐め付くし、今度は笑いながら闇の腕を伸ばす。

 一匹の屑を捕らえ、それを目の前まで引き寄せた。そして、思い切り握り潰す。

 何色とも言えない体液が顔中にかかったが、相変わらず朔は笑い続けていた。

「ひゃはははっ、潰れた、潰れやがった、ひゃはははっ!」

 屑が潰れる様がよほど面白かったのか、朔は腹を抱えて笑い出した。

「ひゃっははっ、じゃあ、全部潰すかぁぁぁぁぁっ!」

 またもや高らかに咆吼を上げると、朔は屑の群へと突っ込んでいった。

 闇の腕で切り裂き、握り潰す。

 闇の刃で刺し殺す。

 あたりは腐敗臭が充満しきっていた。

 不快な音が絶え間なく続く。

 しかし朔は笑い続けた。

 赤い双眼だけが鈍く光を放つ。

 暗く、狭い倉庫の中で、朔は殺戮を楽しんでいた。




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