第二章 白い肢体、黒い死体
the white body and a black cat
「白はいい、歪んだ時一番卑猥な色だ。黒はいい、一番死に近い色だ。」




 「・・・・っ?」

 午前七時。

 鏡に白い、胸元に眼帯をしたドクロの描かれたジャージを着た自分が映っている。

 顔を洗おうと洗面所に来たのだが、朔は洗面台の前で突っ立っているだけの自分に気付いた。

 眠い。

 頭がぼーっとして意識しないといつもの習慣的行動すらろくにできない。

朔は蛇口をひねり勢いよく水を出した。冷たい水で顔を洗う。

 その冷たい液体が肌に触れることで、皮膚の感覚が戻ってくる。 

 結局あれから一睡もできなかった。

 いつもなら休日はこんな時間には起きないのだが、寝るのは諦めて一階に下りてきた。

 一度頭が冴えると寝付けないものだ。目の下のくまは一層凄惨なものとなっている。

(睡眠不足で人は死ぬのかね・・・?)

 鏡に映る自分の顔を見てそんなことを思ってしまう、それほど酷いものであった。

「ねみぃ。」 

   誰へともなく愚痴を漏らす。

 今日はどうせ日曜、後で昼寝でもしよう。そう体を伸ばしながら思っていると、

「おはよう。」 

 後ろから声をかけられた。耳に心地よい澄んだ声。

「おはよう、輝更。」 

 振り向いた朔の前には金髪碧眼の少女。笑顔が可愛らしい。  

 朔の妹、輝更。

 柔らかい金色の髪は腰のあたりまで伸び、青い瞳はまるでサファイアのように澄んだ色をしている。肌は白く、血色もいい。頬は薔薇色である。

「わっ、凄いくま。大丈夫?」

 一瞬心底驚いた顔をして小首を傾げて尋ねてきた。その一挙一動が朔にとっては可愛らしく、また愛おしい。

「まぁ、なんとかな。」

「どうしたの?」

 心配そうに朔の顔をのぞき込む。その時大きめの輝更のパジャマから白い胸元が見えた。

「い、いや、夜なかなか寝付けねーだけだよ・・・。大丈夫だ。心配すんな。」

 慌てて目を反らしたが、言葉はごもってしまった。

「日曜日に珍しく早く起きたんだと思ったけど、もしかして単に寝てないの?」 

 しかし輝更は気にすることなく顔を洗いながら質問を投げかけてくる。

「ん?あぁ、そうだな。」 

 タオルを持ったまま答える。まさか本当のことなど口が裂けても言えない。

「ほら。」 

 やがて顔を洗い終えた輝更にそれを渡してやる。ついでに少し濡れてしまった金髪を拭いてやる。

 ありがと、と笑顔で輝更が答える。その笑顔が痛かった。



「何だろうね、不眠症かな?あ、でも不眠症の人って昼間寝てるんだって。だからさらに夜眠くなるっていう悪循環になちゃうんだって。あ、もしかてお兄ちゃん学校で寝てる?」

 パジャマからTシャツ、パンツ姿へと着替えを終えた輝更は朝食の席に着くまで表情をコロコロと変えながら話しかけてくる。

(朝から元気だな。)

 寝不足を抜きにして朔は元々朝に弱い。夜行性を自覚している朔にとって朝からこんなに話たりするのは到底まねできない芸当だ。

 素直に感心する。

「おはよう。」

 エプロンを外しながら御鏡みのりが二人を出迎えた。その下にはスーツを着ている。

 朝食の準備はすでにできていた。炒り卵だ。

 朔、輝更の母で、地方公務員。平良町の市役所の人事部に勤める。

 四十間近だが童顔のため若く見える。

「サクがこんな時間に起きてくるなんて珍しいわね。今日は雨かしら?」

 柔らかい笑顔でみのりが言った。朔の両親や彼に親しい友人は朔をサクと呼ぶことが多い。

「今日は曇りだ。」

 母親の冗談を素っ気なく返す。

 が、みのりはそんなことで気を悪くしたりはしない。それを知っていての返答である。

「はは、おはよう。」

 笑いながら新聞から顔を上げて言ったのは御鏡晴海。みのりと同じく地方公務員。花立町に隣接する港町大浜の浄水場で働いている。

 度の強い眼鏡を掛けている。椅子にはスーツが掛けられていた。

「今日も仕事か?忙しいな、公務員も。」

 スーツから二人とも仕事があることを察した朔が言いながら席に着いた。目の前には黄色い卵が盛られている。

「あら、それは皮肉かしら?」

 みのりもまた席に着きながら言った。

「毎日毎日スクランブルエッグじゃな、皮肉の一つも言いたくなるっつうの。」

 もう何日も連続で朝の食卓に並ぶ卵料理をさして抗議の意を示す。

「確かに。」

 晴海が頷き息子の意見に賛同する。

「だって簡単なんだもの。それに、」

「そんなに言うなら私みたいに何か手伝えばいいじゃない。」

 軽く答えたみのりに続けて輝更もあっさりと答える。

「手伝いって、お前皿洗ってるだけだろーが。」

「朝はそうだけど、夜は料理も手伝ってるもの。それに私がお皿洗わなかったらお母さんもっと急がなくちゃいけないから、卵すら出ないかもよ?」

 トーストをひらひらとさせながらの輝更の反論。正論である。

「そうそう、何もしていないのに文句ばかり言わないの。」

 こうなっては男二人、黙って食べるしかない。

「でも、ホント最近忙しいよね。」

 卵を口にしながら言ったのは輝更。

「朝は早いし、帰りは遅い。公務員の特権土曜の休日を返上しての出勤に、今日みたいな日曜出勤。それからお兄ちゃんも凄いことになってるし、みんな大変だね。」

「そうなんだよ。毎日色々することがあってね。これだけ働いていると部長よりも給料もらえるよ。きっと。」 

 冗談交じりの愚痴を晴海がこぼした。しかしその顔は笑っている。

 晴海とはそういう人だ。たとえどんなに忙しくても、疲れていても、子供達の前では決してそういった所を見せない。

 俺達に心配を掛けたくないのだろう、と朔は思う。

「ところで、サク。」

 先程とは一転ずいぶんとまじめな口調で朔の目を見て言う。

「おまえ、本当に大丈夫か?」 

 自分たちに心配させたがらないのに他人のことは随分と心配する。

「病院へ行った方がいいんじゃない?」

 みのりも心配そうに言う。

「大丈夫。大したことじゃねーよ。」

 大したことないわけはない。

 しかし朔はどうしても両親に遠慮してしまう。まさか本当のことを言うわけにもいかないと言うこともあるが、朔も二人には心配を掛けたくなかった。

 二人はいつもそうだった。

 朔や、輝更に対して非常に甘い。随分甘やかされてきたと朔は思う。

 小さいときから随分良い服を着ていたし、おもちゃもねだればすぐに買ってくれた。

 ちょっと体調が悪いと言えばすぐに病院へ連れて行き、付きっきりで看病する。

   その傾向は年の離れた妹、輝更が産まれてからさらに顕著になった。

 やけに小遣いはくれるし、どこどこに行きたい、何々が食べたいと言えばすぐにそうしてくれる。

 おまけに最近はどんなに遅く帰ってきても小言一つ言わない。

 ただ暗いから気をつけなさい、と言われただけだ。

 変な言い方であるが、二人があまりに、けなげに自分たちに尽くそうとしているような、そんな感じを物心ついたときから受けていたため、朔は逆に二人に気を遣うようになっていた。

「ホント、そんな心配することないからさ。心配すんなよ。」

 朔は努めて平静さを保ちながらぶっきらぼうに言った。

「お前がそう言うなら、別にいいんだけどね。」

 晴海はそう言ったきりもうその話題に触れることはなかった。

 意味のない話題で食卓は盛り上がり、みのりも再びその話題には触れなかった。



「それじゃあ、いってきます。」

「今日も遅くなるよ。」

 二人は食後すぐにスーツを羽織り、そう言いながらリビングを出ていった。

 それぞれの車、晴海はイギリス製ジャガー、みのりはフランス製ドゥシーボへと乗り込みそれぞれの職場へと向かって行く。

それを朔はリビングのソファに寝そべりながら見ていた。

(おかしいよな・・・。)

 二人は最近驚くべきハードスケジュールをこなしている。

 それぞれ努めている所は違うのに、同じように朝から晩まで働いて、休日も同じように出勤していくことなど有るのだろうか。

「・・・・・・。」 

 連日の“悪夢”のせいで完全に寝不足状態の朔は今すぐにでも眠りたいと思うのだが、脳が脈打つような不快感のせいでなかなか寝付けない。 

 朔はぼんやりと思考を続けた。半開きの目に精密な彫刻の施された木製のテーブルが映っている。 

 見る度に思う、ずいぶんと高そうな代物だ、と。 

 思い出してみれば彼の家にはこのぐらいの調度品はあふれている。

 今朔の横になっているソファーも四つ足の本革作り、手すりには木彫りの細工入りだ。 

 両親の趣味で集められた懐古主義的なアンティークの数々、それが家中に置かれている。大きな物から小さな物まで、だ。 

 テーブルの上には銀製の駒とチェス盤がやりかけのまま置かれている。 

 さらに二人の趣味は家具や置物だけでなくフアッションにも及んでいる。  

 晴海はシャツにVネックのセーター、サスペンダーとイギリス老人のような格好を好んでしている。懐中時計を肌身離さず持っていた。

 みのりも同じようにまるで、60年代のロンドンムーヴィーに出て来そうな格好を好んだ。 

 昔は良くあんな格好を着せられていた。

 キャラクターモノと言った、周りの同年代の子供が来ているような服は着ていなかったように思う。輝更もそうだ。 

 どこか、まるで北欧の少年のような格好だったと今は思う。

 今はというのは朔が自分の趣味で服を買い始めたからだ。 

 しかしまだ親が服を買ってきている輝更の服装はずいぶんとレトロな物が多かった。ベルベットのワンピースやエプロンドレスのような。 

 はっきり言ってかなり目立つ格好だと思う。

 しかし朔は瞳の色が普通と違うことを少なからずコンプレックスに思っていたため、見知らぬ人がその事より服装に目を奪われてくれる方がありがたかったことを覚えている。

 輝更も、きっとそうだろう。 

 だからそんな服装をしなくなった今でも、両親の服の趣味は嫌いではなかった。

(でも服やら家具やら、高価な代物をこんだけ買う金が良くあるな。) 

 朔の思考は金銭の方へ移り始めた。頭痛は少し収まってきている。

 もうすぐ寝付けるだろう。  

 フラットテレビ、DVDプレイヤー、最新のMDコンポ・・・・・。 

 アンティークとハイ・テクの産物が、不自然なほど自然に配置されたリビング。 

 塵一つ無い、清潔な室内。 

 それはまるで、生活感の喪失。 

 今、隣のダイニングで輝更が食器を洗う音が聞こえなければ、モデルハウスのソファーで寝てるような感じにでもなるのだろう。

 1人でいるこの家は、浮世離れしすぎていて現実感を感じない。 

 不自然さ、リアリティーの欠如、生きた心地のなさ。 

 しかし朔は、そんな感覚が好きだった。

 だからこうして、ヤニの匂いのする、散らかった、薄暗いお気に入りの自室ではなくここで寝ている。

 二階に行くのが面倒であったからでもあるが。 

 それにしても、たかが地方公務員二人の給料で高級外国車を二台も買えるものか? 

 こんなに大量の最新電化製品を買う金はどこから捻出しているのか? 

 服は?置物は? 

 そう言えば去年、クリスマスにバイクをプレゼントされたな・・・・・。 

 この家もいつかリフォームしようって行ってたような・・・・・・。 

 ・・・・・・。

(何でこんなに金あんだろ・・・。) 

 隣のダイニングから輝更が食器を洗う音が、微かにしか聞こえなくなってきた。 

 やがて朔の意識はまどろみ、朝食の卵のようにぐちゃぐちゃに混ざり混沌としてゆく。

 そして静かに眠りへと落ちていった。



「お兄ちゃん。」

 輝更の声が聞こえた。

 朔の眠りは中断し、脳が覚醒し始める。朔は空になっていた体に自我が流れ込んで来るような感覚の後、目を覚ました。    

 目だけを動かし輝更の姿を確認する。ダイニングの方から顔だけを覗かせていた。

「皿洗い終わったのか?」

 上体を起こしながら聞いてみる。

「何言ってるの、お兄ちゃん。もうお昼だよ。」

 あきれ顔をした後時計を指差しながら輝更は答えた。外は曇り空、太陽の位置はわからない。

 しかし部屋中の時計はアナログ、デジタルをとわず正午を示していた。

「ん・・・っ、結構寝てたな。」 

 体を伸ばす。骨が体のあちこちで鳴るのを聞きながらソファーで寝るものではないと朔は思った。

「起こそうと思ったんだけど、お兄ちゃん寝不足みたいだったから・・・。起こした方が良かったかな。」 

 体の痛みでふてくされている朔に対し、輝更はすまなそうな顔になった。

「いや、起こさないで正解。だからそんな顔すんなよ。ふあぁ・・・。」

 大きなあくびの後朔は立ち上がった。首のあたりが痛い。

「ごはんできてるよ。」 

 立ち上がった朔を見てから輝更は笑顔で言った。

「何?」 

 食べてすぐ寝たので腹は空いていない。だが輝更の作ったものなら食べてもいいと思いメニューを聞いてみた。

「朝と一緒。」

 輝更は笑顔だ。

「お母さん私たちのために多めに作っておいてくれたの。」

「・・・。」

「食べる?」

 テーブルには輝更の分のスクランブルエッグが置かれている。ラップをかけられているのが自分の分だろう。

「いらねぇ・・・。」

 脱力して朔は答え、朔は輝更の向かいの席に座った。結局朝と同じ昼食を食べる気になはならなかったが、頭はまだ少し眠っているらしい。コーヒーが飲みたかった。

「コーヒー飲むの?」 

 あくびをし続けている朔を見て輝更は聞いた。

「ん。」 

 短く答える。肯定の意だ。

「インスタントでいいよね。」 

 そう言うと輝更は棚へと手を伸ばした。朔のお気に入りのドクロの描かれた黒いマグカップに、スプーンいっぱいのインスタントコーヒーを入れる。

「ブラックだよね?」

「ん。」 

 朔はブラック、そしてともかく濃いのが好きだった。

 香ばしい香りや独特の苦みも好きだが、何よりその色が、だ。ミルクなどを入れて濁してしまいたくないほどの、その色が。

「胃が荒れるよー。」 

 言いながら輝更はマグカップにお湯を注いだ。コーヒーの香りが漂い、朔の鼻孔をくすぐる。

「はい。」 

 手渡されたコーヒーを口に含む。入れ過ぎとも言えるインスタントのその苦みで、頭が冴えていくような感覚を感じた。

「ふぅ。」

 一息ついた朔を席に戻った輝更は楽しそうに見ていた。

「おいしそうに飲むよね、お兄ちゃん。」

「飲みたいのか?」

 朔はカップを朝食と何ら代わりのない昼食をおいしそうに食べる輝更の方へ差し出した。

「いっ、いいよ、あたしには苦いだけだし。」

 輝更は首をぶんぶんと振って否定の意を示す。頬が少し赤くなったように、朔には思えた。

「それより、お兄ちゃん。今日これから暇?」

 あらかた食べ終えた輝更が話を切り出した。

「まぁ、暇だな。」 

「じゃあ、ちょっと付き合って欲しいんだけど・・・。」

 一瞬ぱぁ、と顔を明るくさせ、すぐに上目遣いで聞いてきた。

「内容にもよるな。買い物か?どこ行くんだ?」

 断るつもりなど更々ないが、一応そう答える。

「えっとぉ・・・、は、廃工場連・・・・。」

「はぁ?」                           

 予想もしなかった場所が輝更の口から出てきたために、思わず間抜けな声を上げてしまった。

「なんで?」

「じ、実はね・・・・。」

 輝更は何故か小声になっていた。

「出るんだって。」

「何が。」

「だから・・・。お化け・・・・。」

「はぁ?」

 またもや予想外の返答に、声がうわずってしまった。輝更は言うんじゃなかったと顔を俯かせている。

「何だそれ?お前そんなの信じてるのか?」

「わ、私は信じてないけど今学校中ですっごい噂なんだよ?」

 いぶかしげに見つめる朔に対し輝更は真剣な目で答えた。

「・・・どんな・・・・?」

 信じていないのなら何故そんなに真剣になるのがわからなかったが、とりあえず話を進めさせることにした。

「夕方ね、学校帰りにそっちに寄り道した子たちがいたんだって。それでね、一つの廃工場から変な声が聞こえてきたんだって。それでその子たち、怖がりながら中を見てみたんだけど、なーんにも無かったんだって・・・。」

「ありがちな話だな。」 

 率直に感想を言う。こんな事を真剣に話すなんて、しっかりとしているがやはり子供だ。

「でも聞いたことあるって言う人沢山いるんだよ!」

 輝更は少しムキになっていた。

「それも良くある話だ。」

 わざと感情を逆撫でするような返答をする。・・・怒った顔も可愛いからだ。

「でも・・・、でもあんまり噂が酷いから先生たちが一回見に行ったんだよ?それで・・・。」

 そう言って輝更は再び俯いてしまった。からかいすぎたか、と朔が思っていると、

「先生たちはそんなの無かったからあんまり変な噂に振り回されないように、って言ったんだけど、でも私聞いちゃったんだ・・・。」

「・・・何を?」

 輝更の思わせぶりな言い方に、ついつい聞いてしまった。

「職員室の前通ってたら先生たちの話し声が聞こえてきて・・・、本当に聞こえた、気味が悪いって・・・・・。」

「まさか・・・。」

 急に真実味のある話に思えてきた。

 つまり教師たちもその声を聞き、生徒たちを混乱させないために嘘をついた、ということになる。

「嘘じゃないよぉ。」

 顔を上げた輝更は顔をふくらませながら抗議する。

「ん、でも何でお前がそんなところに行かなくちゃいけないんだ?」

「そっ、それはぁ・・・。」

 痛いところをつかれた、と言う顔を露骨に輝更はしている。もじもじと何かを考えながら、ようやく決心したらしく朔に説明し始めた。

「私が先生たちが話してたことを友達に話したら学校中大騒ぎになっちゃって・・・。それで私責任感じちゃって・・・。だからね、言っちゃったんだ、クラスのみんなに。私が確かめてくるって・・・」

「へーっ。」

 素直に感心した。やはりこの年にしてはしっかりとしている。

「で、信じちゃいないがもしもの時のために俺に来てもらいたい、っとそう言うわけな?」

 怖いからついてきて欲しい、という輝更の本心は見え見えだが、今回は顔を立ててやることにした。一瞬ハッとした後、こくこくと輝更が縦に首を振った。

「ふぅ・・・。わかったよ、行ってやる。着替えてくる。」

 そう言って朔が席を立つと輝更は先程以上にぱぁっと顔を明るくさせた。

「ありがとう!お兄ちゃん!」



 輝更が通う立花北小学校は朔の家のある立花台を西へ行き、立花町へと下る坂道からさらに西へと山を削った、北と西を山で囲まれた場所にある。

 廃工場連とはその北側の山を削って作られた元工業地区のことだ。山と山に挟まれるように道路が引かれ、その両脇にいくつかの工場が点々としていたが、近年の不景気で皆倒産や移転をしてしまい、建物だけが朽ちながらも残っている。

 着替えを終えた二人は立花台のほぼ西端にあたる立花台西公園の脇を歩いていた。

 空はどんよりと暗く、公園には誰もいない。

 元々大きな公園というわけではなく、いくつかの遊具があるだけの小さな所であるため、寂しさは一層強く感じられる。

 朔はジーンズに巻いた、鋲の打たれた革製のヒップバックから、黒い、髑髏のディフォルメの描かれたケースを取り出した。中身は煙草、銘柄はHOPE、箱には弓矢が描かれている。来る途中自動販売機で買った物だ。

 朔はさらにバックから銀色の、山羊の骨がデザインされたジッポライターを取り出し本日二度目の煙草に火をつけた。一本目は買ってすぐ吸ってしまった。

 肺にのしかかるような圧力を感じ、一瞬朔はクラリとした。この感覚がたまらなく好きだった。

 最初はとあるグループの先輩が吸っているのを見て、自分も格好つけるために始めたが、今はもうそれ無しでは生きていけないようになってしまった。 

 何しろ煙草を吸うと毛細血管が締め付けられるので何も考えられなくなる。

 それがたとえ“悪夢”のことでも。

 そのため夢を見るごとに何本も消費していたため、今はもう立派なニコチン中毒者だった。 

 そしてその事を家族中が知っている。晴海もみのりも体に悪いから吸いすぎるな、と言っただけだが。

「また煙草?」

 隣を歩いていた輝更も別にとがめる様子もなくそう言った。

 白いブラウスに黒のタイ、ふっくらとふくらんだ黒のスカート、そして白いエプロンというエプロンドレス姿だ。金髪碧眼にエプロンドレス、まるでアリスの様な格好である。

「んー。」

 ニコチンのせいで頭の回りにくくなっている朔は生返事を返した。

「まるで不良だね。」 

 皮肉たっぷりの言葉に対し、笑顔で輝更は言った。ユースドのすり切れたジーンズに、白地の胸元にニヒルに笑う人面の星。そしてバックと同じく鋲の打たれたアクセサリーをいくつかしている。そして煙草を吸っているのだ。

 確かに不良に見える。

「んー。」 

 しかしニコチンで頭が良く回らないためどう返事を返すべきかわからず、先程とは発音を変えて答えるだけになった。

「美味しいの?」

 今まで何度か聞かれたことのある質問だった。回らない頭でも返答できそうなので今度はまともに答えてやる。

「美味くはねぇよ。何なら吸ってみるか?」

 朔は吸いかけの煙草を口から離し輝更の方へと向けた。

「いっ、いいよ、私未成年だから。」

 輝更はずいぶんと慌てた様子で首を振りながら断った。微かに頬が赤くなった気がしたが、朔は気にとめず煙草を口に戻した。

 それから何故か輝更はもじもじとしながら何も言わなくなり、一度トイレか、と朔に言われ、そんなことないよ!、と答えたきりまた黙ってしまった。

 煙草を吸っている朔からは話題を振ることもなかったので、端から見るとアンバランスな二人は黙ったまま廃工場連へと歩いていった。



 朔は死体を眺めていた。

 最初はぼろ雑巾か何かかと思ったが、それはどうやら猫のようだった。

 ようだったというのは、それは車に轢かれたらしくもはや原形をとどめていないからだ。頭部と黒い毛が猫と朔が判断した材料であった。

 煙草を吸いながら朔は何を思うわけでもなく、ただじっとそのぐちゃぐちゃになってしまった死体を眺めていた。

 茶色く変色したその肉にぽつぽつとある白い斑点は、きっとウジか何かなのだろう。

 少しずつ異物に侵されていくその肉塊は、猫であった物であり、もはや猫ではないのだろうか、ふとそんなことを思った。

 輝更はと言うと、廃工場連についてすぐは朔の後ろに隠れるようにその朽ち果ててしまった建物の中を探索していたが、今はもうほとんど1人で行っている。

 今は少し先に行って鍵の開いている、または中に入れそうな所を探していた。 

 もうずいぶんと歩かされた。

 小学生の寄り道だからどうせすぐ傍だろうと思っていたが、彼らは随分遠くの方まで入ってきていたらしい。

 輝更にどこら辺だと聞き、『結構奥だって。』と言われた時からほとんど朔のやる気は失せていた。それに、薄暗い工場内で輝更と二人きりというのがどうにもまずい。

 微かに香る輝更の香りが朔の頭に“悪夢”をちらつかせる。灰がずいぶんと長くなっていることに気付き、朔は死体から視線をようやくはなした。輝更に、マナーは守りなよ、と言われて買ったアルミ製の携帯灰皿に灰を落とす。

 三,四本分の吸い殻が入るとなっていたから、おそらく今吸っているのが最後になるだろう。つまり帰るまで煙草が吸えないことになる。

 そう思うとますますやる気など失せていった。

「お兄ちゃん。」

 ずいぶんと先に進んでいた輝更に呼ばれ、朔は最後に大きく吸ってその煙草を灰皿へと捨てた。

「ここ、ここ。入れるよ。」 

 そばまで朔が歩いてくると、輝更は周りの物より一回り大きい工場の扉を指差した。

 確かに隙間が空いている。何度か開けられたのかも知れない。

「ここかもな。」 

 朔はそう言ってもう錆び付いてしまった扉へと手をかけた。金属が擦れあう不快音を立てながら扉はゆっくりと開いた。

 暗い工場内へと光が差し、二人の影が長く映る。 

 入ってすぐは小さなホールとなっており、左右に廊下が延びている。入り口と向かい合う壁にはどうやら工場内の見取り図が掛けられているようだ。 

 見取り図に掛かったほこりを払ってみると、どうやらこの建物は地上二階、地下一階の随分大きな物であることがわかった。

 一階に運搬口と工場、倉庫が、二階には制御室、事務室そして役員室があるとなっている。地下はどうやら廃液処理場とその制御室があるようだ。

「無駄に広いな・・・・。」

 二人で捜索するには手に余るほどの広さである。

「どうする?」

 脇で地図を見上げていた輝更に聞いてみる。

「一部屋ずつ、入れるところを探すしかないよ。」

 どうやらやる気満々のようだ。

「そうだな・・・・。」

 二人はまず二階から一階、そして地下へと探してゆくことにした。が、二階へ行ってすぐに二人は戻ってくることになった。

 制御室、事務室、役員室の三部屋は一つに繋がっており、制御室へ入る扉にはしっかりと鍵が掛かっていたのだ。とりあえず廊下をよく見てみたが、特に何もなかった。 

 一階に戻ってきた二人はもう一度先程の見取り図を見ていた。

 一階の造りは廊下がぐるりと一周しており、その中央と建物の北側の倉庫、小ホールから伸びる入り口から見て右手側、つまり建物の北側に当たるところに運搬口、西側に工場となっている。 

 二人は建物を反時計回りに見て回ることにした。

 一階は二階と比べて暗かった。二階の廊下は窓があったがここにはない。

 朔はフラッシュバックするかのように断片的に頭へと浮かび上がる映像に必死に耐えていた。

 輝更の持ってきたペンライトを握る手は既に汗ばんでいた。

 廊下の突き当たりにある搬入口への扉は、開けっ放しになっていた。驚いた教師たちが慌てて出てきた跡かも知れない。 

 搬入口へと足を踏み入れた途端、朔は凄まじい寒気を感じた。

 全身が粟立つ。

 首筋の毛が逆立つ。

 猛烈な寒気。

 汗が噴き出す。

 苦しい。

 誰かの視線。

 体が熱くなる。

 口内が一気に渇く。

 粘りけが気持ち悪い。

 “悪夢”の映像のフラシュバック。

 浮かび上がる速度は増してゆき、一つ一つが弾け飛んでゆく。

「お兄ちゃん?」

 一瞬の閃光。

 硝子が粉々になるように、それは崩れてゆく。

 輝更の声で朔は我に返った。

 そして自分が息をしていない事に気付いた。

「お兄ちゃん?」

 もう一度輝更の声。

 心配そうに顔を見上げている。

「どうしたの?ぼーっとして。」

「・・・・何か・・・・いる。」

 朔は身を固くし、辺りを見回しながら言った。

「えっ?じょっ冗談でしょ?」

「違う、そんなんじゃない。ここに入って何か感じなかったか?こう・・・、入ってはいけないところに入っちまったような感覚というか、何かに・・・、見られてるような感覚とか・・・。」

「な、何も感じなかったけど・・・・。」

 輝更はそう言いながら朔の服の裾をつかんだ。

 輝更が近づくことでその体の香りが朔の鼻まで届く。頭の隅でその白い肢体がちらつく。

 朔は僅かに出てきた唾液を飲み込む。喉は異常に渇いていた。首を振り、視線の主を捜す。ずいぶんと嫌な視線だった。

 闇よりも、さらに暗いところからただじっとこちらを見ている感じがする。

 ナメクジに背中を這い回られたらこんな感覚にでもなるだろうか。 

 その時、微かに朔の耳に、何か、生き物の声が聞こえた。

「今、何か聞こえなかったか?」

 顔をこわばらせている朔を見て怖くなってきたのだろうか、輝更は朔の背中にぴったりとくっついていた。

「な、何が?」

 声が震えている。

「声だよ、何かの。噂は本当だったのかもな。・・・・、行くぞ。」

 声の主が、この視線の主かもしれない。朔はどうしても正体が知りたくなっていた。

「何かいたら、どうするの?」

 震える声の輝更の問いに、朔は答えなっかた。

 搬入口には二つのベルトコンベアーがあり、搬入、搬出用のシャッターが右側の壁にあった。

 奥のシャッターは少し開いているようだ。そこから少し光が差している。左手側には棚に段ボールが山積みになっていた。

 朔は慎重に一歩づつ歩を進めた。

 輝更は完全に朔の背に隠れ顔だけそこから出していた。

「にーっ・・・・にーっ・・・・。」

 閉まっているシャッターの脇にさしかかった時、今度ははっきりと声が聞こえた。同じ声を、和音で出しているような音。

 普通の生物では出しようのない音だった。輝更にもはっきり聞こえたらしい。

 裾をつかむ力が増したのを背中越しに感じた。

「!?」

 さらに奥へ進んだとき、奥の方で何かが光ったのを朔は見た。何かが射し込む光を反射したのではない、間違いなく生気を感じられる物だった。

「お兄ちゃん!!」

 怯える輝更の手を振りきり、朔は走り出していた。頭のなかでは“悪夢”がスパークしている。

 そして、かつてないほどにに興奮していた。これから自分が見るであろう異様な存在に対して。

「そこかぁ!!」

 見開かれ、血走った目で光が見えた方向へと叫ぶ。

 咆哮のようなその声は金属製の建物内に響いた。 

 そこには確かに光るものがあった。七、八個、目のような物が暗がりからじっとこちらを見ている。

「にーっ・・・・にーっ・・・・。」

 声もそこからしてくる。

 鼓動が早まるのを感じる。

 口元には薄く笑みがこぼれていた。

 朔はにじり寄り、そしてペンライトを向けた。

「あぁ!?」

 素っ頓狂な声を朔があげ、置いてきぼりにされていた輝更が慌てて寄ってきた。

「声の正体って・・・、これ?」

 そこには段ボールのなかで鳴いている、四匹の黒い子猫がいただけだった。 

「何だよ、脅かせやがって・・・・。」

 急に疲れを感じた朔は、先程まで感じていた視線を今は感じないことに気付いた。

(感化されてたかな。)

 もし勘違いであるとすれば、かなり滑稽に思えてくる。確かに子猫たちは自分たちを見ていたが、寒気を感じるのにはほど遠い。

「幽霊の、正体見たりなんとやら、か。ったく、人騒がせな猫だ。」

「ホント。でもお化けとかじゃなくてよかったぁ。お兄ちゃん一人で行っちゃうんだもん。びっくりしたよ。」

 輝更はふくれて見せたがそれ以上咎めることなく猫と戯れ始めた。

「あは、ちっちゃーい、可愛い。」

 輝更は一匹の子猫を抱き上げ顔に近づけた。ねこは舌を出し輝更の鼻先をなめた。

「くすぐったいよぉ。」

 輝更が猫に気を取られているのを見て、朔は煙草に火を付けることにした。

 先程までの、あの体の芯から熱くなるような感覚は何だったのか、自分の中の混沌とした欲望が、理性の皮を剥ぎ取ろうと無数に腕を伸ばしてきたような感覚は、そしてそれに飲まれ、本能のままに駆けだした自分は何だったのだろう。 

 一体、何がそうさせたのか。 

 そして、脳裏に焼き付く輝更の淫靡な姿は。 

 余計なことが次から次ぎへと浮かび上がり、考えるのが億劫になった。 

 朔は煙草に火を付けた。十四ミリのタールが重く肺にのしかかり、思考がぼやけ始める。 

 白い煙を吐いた。

 灰皿はもう一杯なので、輝更に見つからないよう灰を床に落とした。

「お兄ちゃん。」 

 火を靴で消しているときに呼ばれ、見つかったかと思ったがそうではなかった。

「この仔たち、捨て猫かな?」

 子猫の一匹を顔の前に持ったままそんなことを聞いてきた。

「こんな目立たないとこ捨てるか、普通。野良じゃねぇの?」

「じゃあお母さんがいるんだね。残念。」

 どうやら愛着が湧いたのだろう。飼いたくなったようだ。

「一匹ぐらいいいんじゃねぇの?親父もお袋もいいって言うって。」

 二人のことだ。二つ返事で了承するだろう。

「でも、可哀想だから。」

 輝更はそう言って名残惜しそうに子猫を段ボールに戻した。

「この仔たちが一匹でもいなくなったら、お母さん猫がきっと悲しむよ。だから・・・、いいの。」 

 なるほどと輝更らしい考えに感心していた朔の頭に、先程の猫の死体が思い出された。もしかするとあれがこの子猫たちの親かもしれない。ちょうどシャーッターは開いている。そこからすぐ道路だ。 

 でも、もしそんなことを言ったら輝更はどうするだろう。

 四匹連れて帰ると言うだろうか。

 きっと言わないだろう。

 四匹でも両親はいいというかもしれないが、世話するのが大変なのか輝更にもわかるだろう。だからといって何匹か残していくのは可哀想、という葛藤を起こすに違いない。

「そうだな。じゃあ帰るか。」

 朔は何も言わないことにした。

 あの死体がこの猫たちの親だとは決まったわけでもないし、猫より輝更がそんなことで苦しむかもしれないことの方が重大だった。

「うん、そうだね。私も早く帰りたい。」

 輝更は後ろ髪を引かれる思いを断ち切るように小走りで朔の脇を走り過ぎ、扉の外へ出って行った。 

 朔もちんたらとその後に続き運搬室を出ようとした時だった。 

 入ったときに感じた寒気を再び感じ感じ、朔は振り返った。 

 そこには何もなく、ただ微かに子猫の鳴き声が聞こえる。 

 体の火照りと、白い肢体の映像が残る。    

 朔の頭の中は、今朝の卵のようにぐちゃぐちゃに混ざり合っていた。




Back/ 闇の現 /Next