第一章 少女幻影
my little lover
「妹背なる者よ。我が、永遠の花嫁よ。」




 暗い。

 ただただ暗い。



 闇だ。

 それ以外に何も無い。



 闇。暗黒の空間。

 方向は意味を失った。

 時は形骸化し、重力は存在しない。

 漂う自分と闇があるだけ。

 何も見えない。

 何も聞こえない。

 何も触れられない。

 けれど、苦痛ではない。



 闇。

 俺の心は穏やかだ。

 まるで、そう。傷が癒えていくような。

 そんな感じだ。

 ここには俺の邪魔をする者はいない。

 俺を、忌々しくも駆り立てるものも、きりきりと締め上げるように苦しめるものもない。

 静かでいい所だ。



 闇。

 包み込む闇。柔らかい闇。

 暗く、昏い。

 安堵が溢れ出てくる。

 あぁ、これが一体感か。



 闇。

 俺の輪郭は溶け始めた。境界が曖昧になってゆくのがわかる。

 俺と、闇が、混ざってゆく。



 あぁ、あぁ。 このカオスが、たまらなく好きなんだよ、俺は。

 あぁ、あぁぁ。



 闇よ。俺を埋めるもの。

 静かに、空白を埋めてゆけ。染めてゆけ。

 俺を、漆黒の闇へ。

 黒く、暗く、深く。

 もっと、もっと、もっと・・・・・

 もっと、もっとだよ、闇よ!



 ああ闇よ、なぜだ!

 なぜ埋め尽くしてはくれない?

 俺の、この虚無にも似た心の中心を、なぜ埋めてはくれない?

 この穴がある限り、俺は決して満たされないんだ!

 俺は知っている!

 それがどんなに辛いかをだ!

 この俺に、亡者になれとでも言うのか!

 嫌だ!嫌だ!

 あぁ闇よ、俺の願いを叶えてくれ!

 闇よ!

 俺の願いは受け入れられたのだろうか。

 完全の闇が少し歪んだ。

 そして、現れたのは小さな光だった。



 違う、違う、違ぁぁぁぁぁう!

 闇よ、俺の闇よ!

 なんだこれはぁ!

 光などいらない、お前が、お前だけが俺を埋めればいいんだ、闇よ!

 声が虚しく闇へと吸い込まれてゆく。

 忌々しくも小さな光はその脆弱な光で俺を照らしている。

 憎たらしい限りだ。



 光が少し大きくなったのを俺は見逃さなかった。

 不快感は募るばかり。

 あぁ、忌々しい、忌々しい存在め!

 しかし俺は気づいた。光は俺のよく知る者へと変化してゆく。

 その時俺は気がついた。

 そうだ、これだ!俺を最後に満たすものはってね。



 静かな胎動と共に、少しずつ光は成長してゆく。

 あんまり周りの闇が濃いもんだから、すぐ消えそうになってしまう。

 だから俺は抱きしめてやったんだ。消えないように、そっと。

 あんまり脆いもんだから、ついつい壊したくなっちまうけど、そこは我慢したさ。

 何しろ俺が求めてやまないものだからな。

 そうでないなら砕いてたかも。

 まぁ、みんなそうだろ。大切なものは壊したくなる、ってのはさ。



 はじめは微々たる程であった光は今や、十歳かそこらの少女の形をしていた。

 光の処女。

 あぁ。

 恍惚の表情。歓喜の声を漏らす。

 求めていた存在。手を伸ばせば届く、完全なる充足へ。

 わかるか?虚無を捨てて、俺は至福の時を手に入れるんだ!



 少女は目を開いた。サファイアのような澄んだブルーの瞳。

 そして俺に向けて微笑んだ!

 美しい!

 愛らしい!

 可愛らしい!

 それから、それから・・・・・

 あぁ、言葉が足りない!どう言えばいい、この素晴らしさを!

 あぁそうだ!最高だ!最高なんだ!



 光のヴエールに包まれた少女。

 肌は透き通るように白く、髪は金色。まばゆく輝く黄金色!

 あぁお前の髪でなければ黒く染めてやるところだ。

 憎らしい光も、お前と共にあるやつは別格だ。

 俺を、酔わせてくる。

 俺は手を伸ばした。

 白い肌に手が触れる。あぁ、まるで初雪のようだ!

 触れるだけで興奮する。

 金色の髪、絹のような手触り!

 あぁ、あぁぁ!

 漂う石鹸の香りが、今は途轍もなく淫靡だ!

 する気など更々ないが、もう我慢できない!



 桃色の薄い唇を奪う。

 柔らかい、少女の味!

 口内へ舌を入れる。絡みつく少女の舌!

 求めれば、求めるだけ帰ってくる快楽!

 これがどれだけ幸せか、わかるか?



 舌を抜き、口を離す。

 透明な糸が二人の繋がっていた証さ。

 俺は少女の脚を持ち上げた!

 何という、可憐で、淫靡な花びらよ!

 蜜が甘い香りで俺を誘う!

 熱く滾る俺自身を、俺は入れた!

 あぁぁぁぁ!

 何も考えられない!

 最高だ!最高だ!最高だ!

 馬鹿みたいに腰を振る。

 少女は決して拒まず、全てを受け入れてくれる。

 意識は白濁してきた。もう、すぐに限界だ!



「あぁぁぁぁぁぁっ!」

 夢の続きのような暗い部屋で少年は目を覚ました。その暗さに気付き慌てて口を塞ぐ。

「・・・・・・・・・・・・・」

 耳を澄ます。時計の針と、一階の冷蔵庫の唸るような音しか聞こえない。どうやら誰も起きなかったようだ。

 少年は溜息をつくと跳ね起きたベットに再び横になった。嫌な汗を背中に感じた。

 じっとりとしていて気味が悪い。

 息は荒れ、皮膚にはリアルな感覚が残っている。下半身にはどうも血液が集中しているようだ。窮屈でたまらない。

「勘弁してくれ・・・・・・・」

 少年は真っ暗な天井へ

 愚痴を漏らした。無論、それを聞く者などいないが。

 少年、御鏡朔は連日同じ夢を見ていた。それは、目覚めたとき悪夢へと変わる享楽の夢である。

 夢の中では決まって、朔は一人の少女を犯すのであった。

 御鏡輝更、朔の実の妹に当たる少女を、である。

 朔は寝返りを打ち、ベットの脇にあるテーブルへと手を伸ばした。煙草を入れている黒いケースに手を伸ばした。が、ずいぶんと軽い。

「・・・・・あぁ、そうか。」

 もう空であったことを思い出した。

 煙草は諦めるしかないようだ。今から買いに行く気にはならないし、どうせ自動販売機も止まっていることだろう。

 煙草がないならば、と朔はもぞもぞとベットから這い出るとベランダへと出た。

 四月末、春とはいえ夜風はまだ肌寒い。冬の名残だ。

 しかし体の芯が熱を持ったように火照ってしまった朔にとって、体の脇をすり抜けてゆく風は心地よかった。

 現在、朔は高校二年の十六歳。それに対し輝更は小学五年、去年ようやく十歳になった。

 年端もいかない血の繋がった少女の体。それはまだ女性と呼べるものではない。しかしそのまだ未熟な体に欲情し、夢とはいえ犯している自分。罪の意識が、鈍く朔の胸を咬んだ。

 だが、忌々しくも背徳感とは興奮を駆り立てるものらしい。夢の内容は次第に過激なものとなってきていた。後悔をすればするほど、より淫靡な夢と、さらに深い苦悩がその先に待っている。朔にしてみれば最悪の悪循環だった。

「糞ったれが・・・・・・」

 冷たい夜の闇へと、答える者無き声は吸い込まれてゆく。

 一陣の風が呟かれた声を拡散させていった。

(煩悩も吹き去ってしまえばいい・・・・)

 熱を奪われ冷静さを取り戻した頭が、そんな自嘲めいたことを思う。

 嗤い声が頭の中で虚しく響く。風は静かに吹き続けている。

 磐城市、北関東との境界近くに位置する面積だけは大きい市だ。そして今朔の眼前に広がるのは磐城市最大の街平良から三駅離れた立花町の夜景だ。

 昼とは別の表情を、今街は朔に見せる。昼の明かりが街灯に取って代わり、昼の面影を漆黒の闇の中に残していた。

 立花町の北には立花台という小高い丘があり、そこに作られた住宅街の一角に朔の家はあった。そのため南を向いた朔のベランダからは街が一望できる。

 その灯火を消し去り闇の色へと染まった家々の中に、細々と消え去りそうな光が灯されている。立花駅は無人のその姿を、自らの電灯で照らしていた。

 視点を先に向けると、闇の中に浮かび上がるように臨海工場地区の煙突のライトが点滅を繰り返している。塔にも似たその先端からは絶えることなく、悪魔の息のような煙を黒い空へと吐き出している。

 ここからは見ることは叶わないが、この丘、立花台の西側を開いて作られた工場地区も、かつては同じ光景を見せていたのだろうか。寂れた廃工場連となった今、その問いの答えを自ら確かめることは叶わないが。

 そして、臨海工場地区の向こうには海、月と星々がその表面を妖しく照らし、蠢く蠱のよう。気味悪く、それでも何故か心を捕らえ離さない、奇怪な魅力を持った夜の水面。それがここから見える海の姿だった。

 朔は夜が好きだ。全てが静寂と漆黒に包まれた世界が、他のどんなものからも侵されることのない崇高で、完全な、混沌をも内包した絶対の秩序、そんな風に思えるからだ。

 闇。

 それが朔の心を駆り立て、そして優しく包み込む。

 必ず、輝更や“悪夢”に苛まされるのは暗き闇の中にいるときだった。それでも、闇は苦悩以上の安堵を彼に与えてくれたが。

 朔は視線を海から空へと移した。

 月はもう沈んだのか、寝る前には見えた上弦の月は既になかった。

 南の空には天秤座や蟹座といった、春の星座とは言えない星々が輝いている。もうそんな時刻なのだ。

 更に視線を上へと上げる。天頂、そこには渦が見えた。

 いつも通り、そう、いつも通りの空だ。

 渦が、見える。

「ふんっ・・・・。」

 鼻で笑う。わかっていたことだ。

 見たくもないものがあることはわかっていた。それなのに、今日は見えないかも、と根拠もないのに見上げてみた結果がこれだ。無駄な期待をして打ちのめされた自分を笑う。

「期待など、持たない方が楽だな・・・。」

 様々な思いを込めてそんな言葉を吐き出した。望まなければ、叶わなくとも傷つくことなどないだろう。

「ちっ・・・。」

 舌を打つ。他人には見えない渦。幻覚か、病気か、どちらにしても自分がまともじゃないようなことの証明のようなものだ。

 忌々しげに渦を睨みつける。朔にとってこの渦は不幸と狂気の象徴のようなものだ。渦が見えるようになったのと、輝更を強く意識しだしたのは同時期だったように思える。いつからそうなったのかは、もう忘れてしまったが。

 禍々しい渦。不吉な渦。それが最近日に日に大きくなっているように思えた。それが毎晩エスカレートし始めた夢を彷彿とさせ、朔はいっそう憂鬱になる。

「俺は・・・・、やっぱ狂ってるのか・・・・?」

 鏡となった夜の窓ガラスに映った自分の姿にそう問うてみる。

 映る鏡像。生まれつき、病的なまでに白い肌。月光を受け、青白く光る。深海で妖しく光る魚のように。そして、それが朔の目の色を際だたせる。

 血のような、深紅の眼。 

 闇に浮かぶ、赤い双眼。前髪の影、そしてくまのせいでひどく悽愴で、悲惨で、恐ろしく、そして自らの内側を這い回る狂気の片鱗を映す尋常でなき目。

「最悪だ。」

 何もかもが裏目に出る。

 すべてが心を打ちのめす。

 全てが心を突き刺し、抉り、剥ぎ、嬲る。

 締め付け、責め立てる。

 つくづく自分が嫌になる。いっそ、もう狂ってしまいたいとも思う。きっと、今よりは楽になれるだろう。

 もう、死でもかまいはしまい。

「楽に・・・・、なりたい・・・。もう・・・・。」

 もう耐えられない。このままでは俺は輝更を犯してしまう。そう言いかけて朔は言葉を飲んだ。

 口にしたくもない。そんなことを。

「あーぁ。・・・・・・・寝よ。」

 悩んだところでどうにもならない。だから寝ることにした。 ひとはそれを逃避だというかも知れないが、それは客観から見ているからだと朔は思う。結局その人の痛みや苦しみなど当人にしかわからないのだ、と。

 部屋に戻ろうとしたとき、目の端に輝更の部屋の窓が映った。朔と輝更、そして両親の部屋は全て二階にありベランダからでも行き来できる。

 ドクン。

 一つ、大きな鼓動が起きた。

 消えかけていた興奮の火が一瞬にして大きくなる。

 霞がかる思考。

 追いやられる理性。

 顔見せる本能。そして欲望。

 ドクン。ドクン。

 加速する鼓動。

 見開かれた双眼。

 生唾を飲み込む音。

 ドクン。ドクン。ドクン。ドクン。ドクン。

 全身が心臓になったような感覚。

 心臓の鼓動と共に疼く頭。

 それはまるで頭痛のよう。

 つり上がった口元。

 集中する血液。

 隆起した局部。

 ドクン。ドクン。ドクン。ドクン。ドクン。ドクン。ドクン。ドクン。ドクン。ドクン。

 外れ始める戒めの楔。

 目覚め行く本性。

 もう、止めることができない。

 朔は手を伸ばし、扉へと手をかけた。

 この硝子の向こうにいる存在、そのために。

 そして、

 ガシャ。

 鈍い金属音が夜の静寂を破った。鍵が掛けられていた。

 熱は急に冷めた。醒めた自分だけが残された。

 ずるずるとその場に座り込む。朔は震えていた。

「ふつうは、鍵締めて寝るよなぁ・・・。馬鹿みてぇ・・・。」

 自らを哀れむ声は、静かに夜へと溶けてゆく。




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