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 俺は、ニーチェが好きだ。

『善悪』など所詮人のルサンティマンから生まれるものだと彼は云う。まったくその通りだ。『善』も『悪』も、所詮は人の作り出した幻想だ。

 世界に溢れているのは、『力』と『力』の鬩ぎ合いだ。

 強い力が、弱い力を打ち負かす。屈服させる。飲み込み込む。消し去っていく。

 弱肉強食、それが世界の真理。

 綺麗事は本当の事を何一つ伝えない。『強さ』こそ世界の全てだ。

 物理的、精神的、経済的、社会的………どんなときも、強いものが世界を征し、次の時代を作る。

 それこそがあるべき世界。淘汰されるべき弱者は滅びる。

 歴史が連綿と続くのは、強者が世界のシステムを創造し、秩序立てるからだ。

 強者の為のシステム。強者の為の秩序。

 弱者は切り捨てられる。

 世界は弱者を無駄に抱えていられる程、優しくはないのだ。

 弱者に与えられたシナリオ、それは死。逃れようのない、絶対の決定事項。

 死にたくない弱者は強者に縋り付けばいい。平伏して、命乞いをすればいい。

 弱者は誇りを持ち得ない。弱者は自由を持ち得ない。弱者は強者と平等でない。

 弱者は強者に依存して生きているからだ。

 ………解っていない奴が多すぎるけどな。

 ともかく。

 世界は『力』の鬩ぎ合いで成り立つ以上、常に争いが溢れている事になる。生きる事とは、つまり戦う事だ。

 日々とは闘争だ。

 そこに、『善悪』は存在しない。

 あるのはただ、本能、ニーチェの言葉を借りて言えば『力への意志』、フロイトの場合は『リビトー』だろうか。だが俺は別の言葉で表現している。

 それは、『悪意』。

『善悪』が例え幻想であろうと、このあまりに醜いものを指す言葉で、他に相応しいものが思いつかない。

 人は醜い。人生は虚しい。そして、世界は『悪意』で満ちている。


  
 俺が、哲学に興味を持ちだしたのは幾つくらいの時だっただろう。

 アーノルド家に預けられて暫くしてからだから、大体六年前か。あの頃は、まだ俺も若かった。身体も、精神も。

 歳をとった。随分と老けた。

 鏡に映る男の顔は、眠たげな顔の二十代後半。小さな皺が目立たないながらもあちこちにあり、乾燥した肌はかさついている。顎からは無精髭がはえていた。瞼が目を半月型にしているのは、眠いからじゃない。これでディフォルトだ。

 公式書類に書かれた俺の年齢は24歳。………老け面だ。顔が年齢の一回り上な感じ。

 恐らく何も知らない奴が俺を見れば、26、7歳くらいと思うだろう。

 生まれつきウェーブのかかった黒髪はかさつき、艶がなくなりかけている。

 嗚呼。人生は、儚いなぁ………

「ヒルド、なに呆けているの?」

 お嬢様は館から着てきたものとは違う格好をしている。勿論、試着をしているのだ。

 俺はというと、ブティックの一角に設けられた椅子に座って上の空になっていたところだ。

「ちょっと、考え事を」

 貴方は本当に考え事が好きね、と言った後、お嬢様はその場でくるっと一回転した。別に、お嬢様が立っていた床が回転床とかそういう訳ではない。

 試着している服の感想を、俺に言わす為、全体像を見せた訳だ。この、服飾に興味のない俺に感想を言わせる為、だ。

 お嬢様が着ているのはモスリンの装飾付いた、ブラウンのレザージャケット。その下に襟、裾、袖、レースアップにフリルの付いた白いシャツ。袖のフリルは三段だ。

 スカートはグレイ。縦にストライプが走っている。上と下を分ける様に、腰にはバックルの大きなベルトが巻かれていた。

「似合うと思いますよ」

 正直な感想だ。というか、服の感想なんて似合うか似合わないだけだと思うんだが。

「貴方はそればかりね」

 と嫌味を言われる。何故だ。他になんて言えばいい?

「シャツ、ドレープが美しいですね。お嬢様の細い身体にお似合いだと思いますよ」

 と答えると、お嬢様は『そう?』と言いたげな顔をした後鏡と睨めっこを始めた。

 ………結局詰まるところは『お似合いです』としか言っていないのだが。

 女心と言葉は不可解だ。無駄が多い。無論、男心も無駄が多い、が。

 何故人という生き物はこんなに無駄が好きなのだろう。まぁ、俺が言えたものではないが。

 生きるには不必要なものが、あまりにも多すぎる。

 音楽も無駄、服飾も無駄、絵画も無駄、文学も無駄、数学も無駄、スポーツも無駄、化学も無駄、物理も………言いだしたらきりがない。

 そして無論、哲学も。須く無駄の産物だ。

 ごちゃごちゃと不要なものを自分の周りに侍らして、それが本当の姿をどんどんと見えなくしている。

 真実は自然の状態にしかあり得ない。

 不自然とはつまり偽りであり、無駄なものだ。自然は無駄なものを残しはしない。淘汰する。

 人間はあまりに不自然だ。偽りであり、無駄だ。

 いつか、きっと。淘汰される日が来るだろう。

 自然に帰えらない限り。

 しかし人間は、一度得たものを失う事に恐ろしい程弱い。

 ………まぁ、真実にどれほどの価値があるか、という問題もある、が。

 だが、俺の知った事じゃない。
 
 俺は窓の外を見た。オールドボンド通りが硝子越しに見える。多くのブランド店が敷居を構えるストリート。行き交う人は何処か早足だ。

 俺達は今、グリーンパーク駅からほど近い、オールドボンド通りに入ってすぐのアレキサンダー・マックィーンのブティックにいる。

 ここは、お嬢様お気に入りのお店の一つだ。

 お嬢様はここの常連客で、お得意様。いつもああしてトータルコーディネートし、気に入ったら全部まとめて買っていく。

 金持ちのやる事は理解できない。

 二次元の世界では三次元が全く理解できない様に、貧乏人には金持ちの事なんて一生解らないんだろう。住む次元は一緒でも、世界が違うだろうから。

 ………悪い冗談だ。

「決めた。これ、頂くわ」

 どうやら今回も、全部買って帰る様だ。

 サムソンはそんなに大きな車じゃない。それにもう十一月で、屋根をオープンにした儘じゃ寒くて仕方ないというのに。

 まだ二店目だというのに、これで計五点のお買い上げ。帰りの車内はきつくなりそうだ。

 それは、まだいい。

 問題は、時間だ。俺の腕に巻かれたロジェ・デュブイは今、午後一時を指している。館を出てから、ざっと三時間が経とうとしていた。

 ………暇だ。そして、腹が減った。結構、切実だ。

 俺の朝は結構早い。午前五時には必ず起きる。その分朝食を取る時間も早い。

 そろそろ腹の虫がなりそうだ。

 甚だこの店内には不釣り合いな音を奏でる為に。

「ヒルドルフ、出るわよ」

 その声に俺は随分と長く座っていた椅子からようやく腰を上げる。荷を運ぶのも俺の仕事だ。

 ………軽く鬱だ。空腹と相俟って、きっと腹の虫は悲愴交響曲を奏でる事請け合い。チャイコフスキーなら、きっと皆喜ぶだろう。

 妄想が加速してゆく。

 一日二日何も食べなくたって人間の活動に支障はないのは知っているが、一日三食食べる習慣が身に付くと一回の食事に対する欲求がもの凄く強くなる。

 慣れとは恐ろしい。

 そんな俺の内心は顔に出ただろうか。いや、出ていたら必ず注意するはずだ。『なに、その顔は』と。

 演技には自身があるんだ、基本的にポーカーフェイスな俺。昔取った何とやら。

「次は昼食にしましょう」

 お嬢様から放たれる、なんと喜ばしい一言。

 店の外に出ると、先刻以上に雲が空を支配していた。

 なぜだろう、食事はとても嬉しいのに。

 俺は、厭な予感がしていた。



 イギリスの料理は不味い、とよく言われるが、まぁ、事実だ。

 スイスのパンと良い勝負だろう。パンと紅茶の味なら勝っているも知れないが。

 まぁそんな訳で、俺とお嬢様は昼食をイタリアンにする事にした。食事はイタリアンが最高だ。

 近場のレストラン、というお嬢様の希望もあり、俺は車をソーホーに向けて走らせた。ちなみにソーホーといってもSmall Office Home Officeの略ではない。当然だ。

 ソーホー・スクウェアにほど近い、ベルトレッリ。『ブリジット・ジョーンズの日記』という映画が公開されて以降、やたら観光客が来る様になったが、名だけでなく実も備わった店だ。

 店に入ると、一階は満員との事で二階に案内された。真っ赤なモダンな椅子の並ぶ一階を横目に見つつ、白いリネンのテーブルクロスがシックで落ち着きのある二階に通される。

「一階でなくて良かったわ」

 席に座ると同時にお嬢様がそう言った。

「二階の方が落ち着くもの。ヒルド、貴方もそう思わない?」

 俺にとっては特にモダンもシックも差はない。俺の琴線に触れるのは、もっと別のものだ。しかしここは当たり障りない答えを言っておいた方が、会話はスムーズになるだろう。

 人生とは所詮、妥協と虚構の連続なのだ。

「そうですね」

 俺はチキンのコンフィを頼もうと思いながら、笑顔で答えていた。



 お嬢様が当たり障りないメニュー、ボンゴレ・ロッソを食べ終わった頃には、俺はエスプレッソを啜っていた。

 お嬢様は華奢な身体に相応しい、というべきか、食が細く、食べるのに時間がかかる。ゆっくりと、上品にパスタをフォークに巻き付け、小さな口を開き中へ運ぶ。

 ………しかし、アレだ。人が、特に女性がものを食べている姿、というのはなかなかに官能的だ。口は第二の性器、とはよく言ったものだ。

 薄い桃色の唇が開かれる度、俺の視線はそこに集中してしまう。

「私の顔に、何か付いているかしら?」

 お嬢様はナプキンで口の周りを拭きながら言った。口の周りが汚れていて、それを俺が見ていると思ったのだろう。しかし彼女の食べ方で、口の周りが汚れるなんて万に一つもない気がするが。

「いえ、何も付いていませんよ」

「じゃあ、なんでそんなにずっと見つめるの?なんだか食べづらいわ」

 まさか、官能的で見取れていたから、とはいえない。

「人が食べているのを見るのが好きなんですよ、私は」

 と、当たり障りなくオブラートに包んで答えておいた。

 人と人とのコミュニケーションなど、真実は一割程度しか伝わらないものだ。面と向かっての会話という伝達手段は、最も非効率的だから。

 なんなら試してみたらいい。伝えるべき要件を決め、会って話す、電話で話す、メールを送る、手紙を出す、と段々と相手からのリアクションが帰って来るのに時間がかかる様にしていくと、間違いなく段々と情報伝達の効率が上がっていくはずだ。

 相手のリアクションを期待しての伝達など、自分の脳以外に相手の脳を使っている、脳の怠惰だ。

 怠惰は、人間を駄目にする。堕落の始まりだ。

 堕落がどの程度のものだ、と思う自分もいるが、わざわざ他人の為にカロリーを消費するのは不服だ。俺は、基本的に人間が嫌いなんだ。

「あんまりじっと見ていると、失礼な人間と思われるわよ。注意なさい」

 お嬢様は、見るな、とは言わなかった。

 ………何となく、俺はこそばゆくなった。



 ようやくパスタを片付けたお嬢様が、最後にレモンティーを注文し、それを飲み終えた頃にはもう午後三時に近かった。

 店を出ると、朝は快晴だった空がもう雲に覆われている。傾きかけた筈の太陽は見えなかった。

「次は何処へ参りましょう」

 食欲が満たされ、女性の食事をじっくり見れた俺は気分が良かった。俺は気分屋なんだ。

 人間は複雑奇怪にして単純明快。矛盾の一言で片付けられる。今はサムソンに詰め込まれたお嬢様お買い上げの品も気にならない。

「お腹が膨れると、急に元気になるわね」

 口元に手を添えてはにかむ様に笑うお嬢様。

 嗚呼、この表情の儘、彫刻にするか硝子ケースに入れられたらどんなにいいだろう。

 彼女の笑顔は、俺の心の琴線を大きく振るわせる。

 ………正直に言えば、俺は軽く倒錯しているんだ。

「アクアスキュータムへ」

 その声は、天上の存在の声に聞こえていた。



 アクアスキュータムのブティックを出た頃には、日はもう暮れていた。

 丁度サムソンに乗り込もうとした時、俺の携帯電話が鳴った。

「もしもし」

「ヒルドルフか?私だ、ウィリアムだ」

 電話の相手はどうやらウィリアムさんの様だ。声が緊張している様に思える。なるほど、悪い予感は的中の様だ。

「お嬢様と一緒か?」

「ええ、片時も離れていませんよ」

 よろしい、と一言言った後、ウィリアム氏は受話器の向こうで一度咳払いをした。

「奴等が動いたらしい」

 その一言だけで、俺の身体が強張る。

「『Broken Englis』と、血文字で書かれていたらしい」

 なるほど、イカしたセンスだ。そんな事やる連中は奴等以外ない。

「銀十字軍………ジルベル・クロイツ」

 俺の呟きに、お嬢様も顔を緊張させた。俺の目を見る。俺は無言で頷いた。

「男女一人ずつ殺された。無惨なものらしい、顔が原型を止めていないそうだ。二人の血で文字が書かれたらしい。間違いなく連中だ、これは、私たちへの挑戦だ」

「場所は?」

「ハックニー。ホマートン駅の雑居街の裏路地だ。警察が行っている、行けばすぐにわかる」

「マスターのご命令は?」

 マスター、それはつまり、大旦那様の事だ。

「『女王陛下とアンサラーの名にかけて、敵を殲滅せよ』との事だ」

 アンサラー。ケルト神話の一つ、ダーナ神話の神族の王、ヌァダの持つ不敗の宝剣の名を冠した組織。

 そのエース、最強のヒットマン、それが、俺のもう一つの顔だ。

「了解しました、とお伝え下さい」

「ハックニーに迎えをよこす、それまでお嬢様を頼むぞ」

 電話が切れる。

「ヒルド………」

 お嬢様が不安げな顔をして俺を見ている。

 俺が、守らねば。

「ホマートン駅まで行きます。そこで迎えが来るので、乗り換えて下さい」

 お嬢様は一旦顔を下に向けると、凛とした顔で面を上げた。

「私も行くわ」

 厭な予感だけ良く当たる、そんな世界は最悪だ。

 なぁ、あんたもそう思うだろ?




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