T




 語り部は、そこにはいない。なぜなら俺以外、生きている者がいないからだ。

 灰色の空が頭上に広がり、足下には朱色の血。

 鼻につく臭いと、生ぬるい温度、そして手に握られた銃だけがやたらはっきりとしていて、後はどうしようもなく曖昧だった。

 それは、堆く積み上げられた屍の上の俺自身も例外ではなくい。

 疲弊していた。俺は疲れていた。

 耳に残る空気を切り裂く音、悲しみと恐怖の悲鳴。全身を振るわす衝撃。

 それが不快で。けれどそれ以外を知らないが為に。

 俺は、疲れていた。嫌気が差していた。
 

 成すべきを成す事だけが、俺の存在意義。機能こそが存在の意義。

 それだけが俺の全て。それ以外は知らなかったし、知る術も無かった。

 運転が出来た。潜入が出来た。脱出が出来た。追跡が出来た。演技が出来た。

 誘拐が出来た。拉致が出来た。窃盗が出来た。強盗が出来た。監禁が出来た。 

 謀略を練るのが得意だったし、拷問して情報を引き出すのも得意だった。

 囮になって逃げるのが得意だったし、証拠の隠滅も勿論得意だった。

 そして殺人が一番得意だった。殺すのは楽だ。

 銃の扱いを知っていた。手榴弾の扱いを知っていた。ナイフの扱いを知っていた。

 標的との距離と数に応じて銃を使い分ける事が出来た。

 どんな体勢からも目標まで手榴弾を投擲する事が出来た。

 ナイフで心臓を突いた後、手首を返す事で心臓を四等分に出来る事を知っていた。

 とりわけ撃ち殺すのが得意だった。

 ハンドガンで、ショットガンで、アサルトライフルで、マシンガンで、グレネードランチャーで、デリンジャーで。

 中でもハンドガンは、最早俺の一部だった。

 弾を弾装に入れ、遊底を引き、安全装置を外し、構え、標準を合わせ、撃つ。

 人間を、穿つ。

 呼吸をするのと同等の自然さで、俺はそれが出来た。

 それが俺の機能だった。

 疑念はなかった。罪の意識は微塵も湧きはしない。

 なのに、俺は酷く疲れていた。

 もう、うんざりだった。 


 ―――世界は悪意で満ちていた。


「ヒルド、いないの?ヒルドルフ、返事をなさい」

 微睡みから浮き上がる奇妙な感覚。俺は、俺の名を呼ぶ声に眠りから現世に引き戻された。

「ヒルド、ヒルドルフ=ヨハンセン」

 名を呼ぶ声は、なかなか返事をしない俺に苛立っているのか少し強めに発せられている。戸を叩くノックの音も、心なしか強くなった。慌ててベットから飛び起きると、急いで鏡の前で身嗜みの確認をする。

 髪、寝癖無し。まぁもともと癖のあるウェーブがかった黒髪だ。よほどの寝癖がなければ目立たない。

 格好、着替えないで寝てしまった為シャツには皺があるが、スーツの上を着れば誤魔化せるだろう。ギーブス・アンド・ホークスのスーツを着たまま寝なかったのは不幸中の幸いだ。

 皺だらけのシャツを第一ボタンまで締めて、緩んだタイを引き締める。

 顔、黒い瞳の周りが少し赤い。これは仕方ない、元に戻るまで待ってはいられない。

「ヒルドルフ!」

 怒声にも似た声がドア越しに聞こえてくる。もう一刻の猶予もないか。椅子にかけておいたスーツを羽織ると、俺はようやくドアノブに手をかけた。


「ヒルド………やっぱりいるじゃない。どうして早く返事をしないの」

 慌てて開けたドアの向こうには、不機嫌そうなお嬢様がいた。

 複雑なカットを入れた真っ赤なキャミソールの上から大きく胸元の開いた白のワンピースドレスを着た彼女は、肌が透き通る程白く、華奢だ。

 デヴィロット=キャヴェンディッシュ=レイ=ジンデル嬢。

 彼女は腰まで届く髪を細い指で振り払った。

 何と言うか、いかにも『高飛車』っぽいのがお嬢様らしい。

 切れ長の目は透き通った蒼、それが射抜く様に俺を見ている。

「すみません、ちょっと片づけを………あと、埃が目に入ってしまい………ノックが聞こえませんでした」

 俺はそう言って目を擦った。我ながらナイスだ。寝ていたとばれたら長々と怒られてしまう。

 お嬢様、ことデヴィロット嬢は溜息をつくと、きっ、と俺を睨み付けた。

「ヒルド、貴方は私の使用人だという自覚が足りないといつも言っているでしょう?」

 いつもお嬢様のお説教は、俺の『使用人としての自覚が足りない』から始まる。いわば定型文、もう何度聞いた事だろう。いい加減聞き飽きた、とは口が裂けても言えないが。

 まぁ、何度も言わせている自分に非がある事は、認めよう…

「………聞いているのヒルドルフ」

 余計な事を考えていた事がばれたか、一層鋭さを増した声がその上品な口から放たれる。

 背筋に冷たいものが走った。

「も、勿論です」

 俺の返事にもう一度、はぁと溜息をついたお嬢様は俺に背を向けた。そのか細い背中が、怒気の抜けた言葉を紡ぐ。

 微かに香るキングダムのローズ。一人一人の心は、一人一人の王国である、か。

「買い物に行くわ、付き合いなさい」

 絨毯の敷かれていない廊下を紅い靴がコツコツと二、三度鳴らすと彼女は振り向き、小悪魔の表情を見せた。

「その皺だらけのシャツを着替えたら、すぐに」

 薄い唇の端を吊り上げる。ああ、ばれていたか………

 はいただ今、と答えると、俺は外出の準備と着替えの為に部屋に引っ込んだのだった。


 俺の部屋はお世辞にも綺麗じゃないし、広くない。

 簡素なベッド、机、クローゼット、そして小さな冷蔵庫が俺の城。窓は南向きに一つ。差し込む陽は薄暗い屋根裏部屋の貴重な光源だ。

 まぁつまり、そういう事だ。

 俺はこの屋敷の使用人で、住み込みで働いてる。下っ端中の下っ端で、あてがわれたのはこの屋根裏。

 まぁ住めば都と言うべきか、特に文句はない。

 さて。あまりモタモタしているとまたどやされる。俺はクローゼットを開き、出かける準備をする事にした。


 ネクタイの首周りを調整しながら階段を下りていると、踊り場からコートを纏ったお嬢様が一階ロビーの真ん中に立っているのを見つけた。

 彼女は俺の足音に気付いたのかこちらを向くと、口ぱくで『早くなさい』と言っている。そして意地悪そうな笑み。急かしてはいるが、機嫌が悪いわけではなさそうだ。

 つまりは、俺を苛めるのが楽しい訳で。

 やれやれ。次に言われるであろう台詞を想像しながら、赤絨毯のひかれた階段を駆けおり、ようとした時だ。

「おや、出掛けるのかね」

 深みのある穏和な声。二階中央の扉から白髪の老人が姿を出した。

「大旦那様」

 俺は深々と頭を下げた。はっはっはっ、と身体を揺らして笑う大旦那様は『畏まる事はない』と言っている。

「遅いわよヒルドルフ」

 階段を上がってきたお嬢様から予想通りのワンフレーズ。面を上げた俺も用意していた台詞を返す。

「申し訳御座いません」

 まぁいいわ、と更に想像通りの返事を返すとお嬢様。

「ヒルドルフと買い物に行って参ります。お祖父様も如何ですか?」

 屋敷の中では傍若無人なお嬢様だが、唯一大旦那様に対しては素直だ。

 レオナルド=キャヴェンディッシュ=レイ=ジンデル。

 没落しかけていたジンデル家を一代で立て直しただけでなく、国家を左右させる程の大財閥にまで育て上げた偉人。今のジンデル・コンツェルンは彼抜きでは決して語れない。

 時代の先を見る事に長けた人物で、今まで様々な事業を成功させてきた。

 仕事に対する姿勢は真剣そのもの。商談の席に置いてもその真剣さから顔が厳めしいものになり、相手方を震わせたという。また真剣さ故に厳しく、職場や現場に顔を出しては激しく怒声をあげていたらしい。

 そして付いたあだ名が、『経済界の獅子』。

 なるほどレオナルドの名に相応しい、と嘗て噂の又聞きしか聞いた事の無かった俺はそう思ったものだ。

 しかし、実際に合ってみた彼はどうだ。

 財界を離れたとはいえ、未だ大きな影響力を持つ身。しかし俺の前にいたのは気の良い老人であった。

 歳の程を思わせぬ姿勢の良さと、その巨躯が嘗ての『獅子』の名残を見せていたが。

 閑話休題。

 取り敢えず俺は大旦那様を『孫馬鹿』、とこっそり思っていたりする。………これは口が裂ける前に言っても大丈夫かもな。

 大旦那様はたった一人の孫であるデヴィロット嬢に頗る甘い。

「ふふ、お前と行きたいのは山々だがな。まだまだ身体が本調子ではないんだよ」

 顎に蓄えた白い髭を撫でながら、大旦那様は渇いた笑いを見せた。

 ………大旦那様はご病気だ。今も寝間着の上からガウンを召したままの格好、おそらく俺とお嬢様の気配に気付いて、寝室からいらしたのだろう。

「大旦那様、お休みになって頂かないと困ります」

 扉の奥から顔を出したのは執事のウィリアムさん。

 髪をオールバックにして、金縁の上品な眼鏡をかけている。彫りが深く、まるで哲学者の様な人だ。ちなみに下っ端使用人の俺には上司とも言える人である。

「大旦那様はご病気の身。館の中とはいえ動き回らず、ご静養下さい」

 館において絶対の存在とも言える大旦那様に、ここまで厳しい一言を言えるのは彼ぐらいだろう。

 ジンデル家執事、ウィリアム=アーノルド。アーノルド家は代々ジンデルに仕えてきた家系で、当主からの信頼も大きい。その信頼に答えるべく、ああしてきつい言葉を使ってでも大旦那様の体調を気遣っているのだろう。

 ちなみに俺もジンデル家の次にアーノルド家にお世話になっている。………全くもって頭が上がらないんだ。

「と、いう訳だ。私は行けないが、楽しんできなさい」

 大旦那様はそんなウィリアム氏の心情を察してか、大らかに笑ってそう仰った。そして俺の方を向く。

「デヴィロットを頼むよ」

 色々な意味を込められた言葉だ。

「畏まりました」

 それを承知で承る。気が引き締まる。

「では、行って参りますお祖父様」

 猫かぶりにしゃなりしゃなりとお嬢様が階段を下りる。俺は大旦那様に頭を下げると、ウィリアム氏と目配せしてからお嬢様の背中を追った。

 ドアの前、お嬢様に代わって扉を開く。外の光が眩しいくらい差し込んできた。

 空はただ、青いままそこにあった。


 もう十一月だというのに天気が良いせいか、それほど肌寒くない。

 ロンドンの十一月は例年五度以上十度以下ぐらいだが、今日は十二度くらいありそうだ。

 ここ最近曇りで寒い日が続いていたので、否応なしに晴れて暖かな今日みたいな日は心が躍る。確かにショッピング日和だ。

 俺はなんだか楽しくなってきた。

「車を用意して参ります」

 花柄があしらわれたロングコートを纏うお嬢様にそう言い残し、俺は車庫まで小走りで向かう。

 広い庭だ。玄関の大きな扉を開いてまず目にはいるのは、おそらく庭の中心にある噴水だろう。

 玄関から100メートルは先にあるだろう門扉まで伸びる白く舗装された道は、噴水の周りだけ円を描く。その白い線が南向きの庭を左右に分けていた。

 玄関前には三段ある階段、それを降りると白い道路は真っ直ぐ前と左右に伸びる。車庫は屋敷の東側、前に植えられたスズカゲの影になって、少し外からは見えにくい所にある。

 景観を気にしてか、でもそれは金持ちの杞憂というものだと俺は思う。

 元々没落しかけた家柄故か、他人の視線が見劣りするところに向けられるのが許せないのだろう。

『経済界の獅子』も、そこは人間の様だ。金を持たない俺にそんな事を思われる筋合いは無いだろうが。

 恥ずかしい部分を隠したい、というのは『後ろめたい』という気持ちが何処かにあるからだ。

『後ろめたさ』、それは罪悪感、罪の意識。何故かは解らずとも、いつもいつも、いつも俺達につきまとう感覚・感情。

 それは俺達のあらゆる行為を束縛し、抑圧し、時に発狂させる。

 痛みであり苦痛であり、苦悩であり虚無でもある。

 そんなろくでもないものから人間は罪から解放される事は無い。イノセンスな人間は存在しないから当然だ。人間が言葉を介してコミニケーションする限り、人間は罪から解放される事は無い。

 なぜなら人間の放つ言葉自体がイノセンスではないからだ。いや、人間が放つからこそイノセンスでないのかも知れない。

 この論議は『卵が先か』に行き着いてしまうが、兎に角だ。

 完全にイノセンスな言葉は存在せず、人間のコミニケーションは程度の差はあれど本質は『攻撃』なんだ。

 ならば人の中で生きるという事は、絶えず罪を犯す事に他ならない。

 そもそも何故俺はコミニケーションが攻撃と考えるかというと…

 ………おっと。悪い癖が出た。車を準備しないと。


 車庫は周りは煉瓦造りだが、自動車を入れておくため、嘗ての入り口にはシャッターが付けられている。

 俺は役職柄、車庫の鍵を持っている。鍵穴に差し込み、開く。

 シャッターを持ち上げ開いてゆく。重力に逆らう行為は反逆の精神を思わせるので好きだ。逆は、嫌いという程でもない。要はその程度の『好き』という事。

 下らない。でも俺はそんな下らない事をよく思う。

 他人がどう思うかは知らないが、自分には必要な事だ。

 どのくらい必要かというと、呼吸器系が正常な動物が肺で呼吸するのと同じくらい。

 必要性、と言うよりは無意識のレベルで、という意味で。

 こういう下らない事を考えていない自分が想像できない、そのくらい俺には思索が日常なんだ。

 ………また余計な自己認識をしている。怒声が届く前に車を出そう。

 車庫の中には何台かの車がある。

 ベンツやジャガーといった所謂高級車もあるが、あれは来客を迎えに行ったり公の場に行くのに使うものだ。お嬢様の好みでない。

 俺はお嬢様お気に入りの一台にキーを差し込み乗り込んだ。深緑のボディ。

 さて、今日も頑張って動いておくれよ、サムソン。


 アンティークカーとカテゴライズすれば言われるだろう古い車だが、やはり重ねた年月分の深みがある。思い通りに動く車より、なかなか運転していて楽しい。

 SalmsonS4-61の1948年製。

 じゃじゃ馬慣らしが好きな俺には丁度いい。 

 天気は良く、気分は上々。エンジンの調子もいい。深緑のボディが太陽を受けて眩しく光る。

 すぐ側にポーランド・パークのある館を出たサムソンは、街中を快調に走って行く。

 館からでるとすぐにアディソン通り、そしてケンジントン・ハイ通りに入る。

 久しぶりに晴れたサンデイ、街に出てくる人は多いらしい。賑やかな街並みが窓に映っては消えてゆく。

 そのまま十分ほどロンドンの街並みを見ながら走ると見えてくるのがハイド・パーク。ナイツブリッジをハイドパークを左に見ながら走ると、やがて右に女王陛下お住まいのバッキンガム宮殿が見えてくる。

 今日はいないけど。日曜だからね。

「ところでお嬢様。シティーの方に向かっていますが、本日はどちらへ?」

 ついついドライブが楽しくなって忘れていた肝心な事を、俺はようやくお嬢様に尋ねる。

「服が買いたいの、まずはプリングルまで行って頂戴」

 まずは、という事は何件か梯子するのだろう。少し気が滅入った。

 ジェンダー云々言う人がいるかも知れないが、敢えて言おう。何で婦女子の買い物はあんなに時間がかかる?理解できない。

 一体今日は計何時間、俺は興味もない婦人服専門ブティックにいる事になるんだろう。

 そんな俺の心理を読んだのだろうか、お嬢様がとある一言を発した。

「大人しく付き合ってくれれば、また一着何か買ってあげるわ」

 俺は狗か。餌で釣られているよ。しかし俺は反論できる立場にない。

「了解致しました」

 なるべく嬉しそうな声を出す様に努めながら、俺はハンドルを右に切り、スローン通りに入った。

 パレスの影が左側の窓に映り、やがて見えなくなっていく。

 さっきまでの楽しさは何処へやら。気付けば少し、空も曇った様に思えた。




世界を穿つ悪意の弾丸 /Next