第七節




 今でも覚えている。

 あの子がいなくなった日を。

 今でも覚えている。

 笑顔が消えてしまった日を。

 今でも覚えている。

『おかえり』と、言われなくなった日を。


 私には、年の離れた弟がいた。

 私はその時にはもう物心が付いていて、弟の存在がただ単純に嬉しかった。

 私は弟を本当に可愛がった。

 両親も、弟をとても可愛がったけど、私はそれに嫉妬はしなかった。

 それぐらい好きだった。


 そのころは家族には笑顔が溢れていた。

 もちろん出かける時は『行ってらっしゃい』と言われ、もちろん帰ってきたら『おかえり』と言われた。

 それが当然だと思っていた。

 毎日が楽しかった。

 幸せの意味など考えたことなど無い程に。

 そう、あの頃は幸せだった。

 生きる意味など、考える必要なんて無かったのだから。


 でも、終焉は突然やって来た。

 私の前を弟がまだ頼りない足取りで駆けていた時だった。

『転ぶよ』と、私が笑顔で言った時だった。

 一台の車。

 タイヤがアスファルトに擦れる音。

 ボンネットが凹む鈍い音。

 弟は不自然な格好で、道路すれるれを流れるように飛んでいった。

 潰れたトマトのように辺りは真っ赤で、一瞬弟の身体がびくりと震えた。

 そして、動かなくなった。

 私は悲鳴さえ上げる事が出来ず、ただ立ち尽くしていた。


 交通事故の被害者の遺族に与えられるのは損害賠償と慰謝料だけ。

 お金で命が買えますか?

 お金で笑顔が買えますか?

 お金で、失った時間を買えますか?

 それは無意味だった。

 弟の血にまみれたお金など、私たちは使いたくなかった。


 そして、その日から私たちはおかしくなった。

 家族がぎくしゃくし始めた。

 父さんは、事故のことを忘れるが為に仕事に没頭していった。

 毎日毎日遅くまで帰ってこず、帰らない日もあった。

 休日も書斎に籠もり、ただひたすらに仕事をこなす。

 やがて交わす言葉は少なくなっていった。

 母さんは、事故のショックから心を少し病んでしまった。

 些細なことでとち狂ったように怒り出す。

 ヒステリーだ。

 勿論両親のなかは険悪になり、三人揃うことなど無くなっていった。

 自分の家なのに、息が苦しい。

 それまで当然だと思っていた言葉をかけられない事実。

 辛かった。

 私も弟を失った悲しみから、内向的になってしまった。

 友達付き合いもはほとんど無くなり、いつの間にか居場所が無くなっていった。

 孤独、そして孤立。

 幸せとは何だろう。

 その時初めてそう思った。

 生きる意味って何だろう。

 その時初めてそう思った。

 答えは出なかった。

 悲しかった。

 居場所もなく、行き場所もない。

 どうせ死ねないし。

 色んな事に耐えきれなくなって、家を出てきた。

 だから今、ここにこうしている。

 
 全てを話し終え、私は大きく息を吐いた。

 胸の蟠りが、少し引いてすっきりした。

 雨音が静かに聞こえる。

 教会には、私と彼しかいない。

 ここが今、私の居場所だろうか?

 そんな、下らないことを思った時だった。

「貴方は・・・」

 静かに、しかし力強く、彼の口から言葉が発せられる。

「甘えています。」

 雨音だけが、教会に響いている。

Back/ 黒の旅人/ Next