第四節




「私は、ただの旅人です。」

「旅人?」

 この時代に、まだそんな奇特な人がいたのか。

「しかもかなり貧乏な。それで宿に泊まるお金もなくて、仕方なくここで雨宿りしているんです。」

 彼はにっこりと笑っていった。まるで自分の身の上を笑い飛ばしているような笑み。

 何故こんなにこの人は笑えるのだろう。

 卑屈ではない、ポジティブな笑み。

「いつも、一人で旅をしています。ふらふら、ふらふらと。」

「なんで、ですか?」

 こんな時代に、一人旅だなんて、何か理由があるのだろうか。

「理由は・・・特にありませんね。」

「えっ?」

 彼の返答に些か私は驚いた。

「理由なんて、全てに必要ではないでしょう?」

 なるほど、その通りだ。

 人が旅をすることに理由など必要でない。

 人が生きることにも必要ない。

 人が人を愛するにも。

 そして、無論啀み合うことにも。

 理由など必要ないのだ。

 あるのは、ただその事実だけで。

 そう、理由など無いのだ。

 そう思うと、私の小さく縮こまっていた心はさらに締め付けられるようだった。

 胸が、苦しい。

 苦しくて、苦しくて。

 涙が、出そうになる。

 私はそれを必死にこらえる。

 涙と共に、弱い自分が溢れ出てくるのが怖かった。

「・・・・・・」

「どうか・・・しましたか?」

 押し黙っていた私を怪訝に思ったのか、彼が心配そうな顔つきでそう言った。

「いえ・・・なんでもないです。」

「・・・・・・」

 辺りが沈黙に包まれた。

 静かだ。

 何故だろう、雨の音が、遠くに聞こえる。

 沈黙を破ったのは彼の方だった。

「あなたが今ここにいるのは、手首の傷に関係があるんですか?」

 一瞬どきりとした。

 私は左の手首を押さえた。

「すみません、あなたが髪を拭いている時、見えてしまいました。」

「・・・・・・」

 私は黙った。

 そう、その通りだ。

 この傷は、私がここにいる理由。

 必要でないもの。

 でも、傷は確かにある。

 そう、手首に、くっきりと。

「・・・・・・良かったら話してみませんか?」

「えっ・・・・・・」

 かれは、また柔らかな笑みを私に向けてそう言った。

「話せば、楽になることもありますよ。」

 その時、何故だろう。

 枷が外れた気がした。

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