第十節




「色々、ありがとうございました。」

 私は教会の前で彼に一礼した。

 彼はとんでもない、と言うばかりで、その顔がなんだかおかしかった。

 私は彼に手を振りながら、賑やかになりかけの街を歩き出す。

 帰ったら、まず一言言うのだ。

 全てはそれからだ。

 それから始まるんだ。

 上手くいかないかも知れない。

 それは解っている。

 でも。

 それはその時考えればいい。

 今はただ、自分に出来ることを。

 生まれたから、死ぬまで生きるのだから。

 せめて、幸せに。

 そうだ、もし、もしも上手くいかなかったなら、私も旅に出るのもいいかも知れない。

 その時、ふっと思った。

 彼の名を聞いていなかった事を思い出したのだ。

 急いで振り返る。

 でも、既にそこにはもう彼の姿はなかった。

 
 一瞬立ち尽くしてしまったが、私はまた歩き出した。

 不思議な一夜だった。

 雨を避ける為に訪れた教会。

 雨宿り。

 不思議な人。

 黒尽くめの、旅人。

 孤独を愛し、孤独に愛される青年。

 よく笑う人。

 彼の笑顔を思い出す。

 ・・・・・・

 自分を傷つけ、追い込んだ昔の私。

 その影は、あの教会に置いてきた。

 雨が、きっと流してくれただろう。

 その冷たい粒をしのげた私の心は穏やかだ。

 古い教会での雨宿り。

 一夜限りの雨宿り。

 そう、私には返るべき場所がある。

 私の家が。

 大きな呼吸を一度。

 さあ、家についたらなんて言うの?

 決まっているわ。

「ただいま」

 と。

Back/ 黒の旅人