STARRED


9th Midian




 化け物だ…

 高さだけでゆうに俺達の三倍はある。見上げてようやく見える奴の眼球は、濃い緑色でぎょろぎょろと動く。

 身体は硬そうな甲羅に覆われ。鋭い棘が全身に付いている。その横幅は高さのさらに倍近くあり、鋏は人間なんか簡単に切り裂けるぐらいに大きい。六本の節足は堅い地盤に穿たれたように付き刺さっていた。

「なんだよコイツ…馬鹿でっけぇ図体しやがって。おまけに喋りやがるのか!?」

 無意識のうちに二、三歩バックステップで間合いを取る。

 でかさも驚きだけど、まさか化け物が喋るとは思わなんだ。

「一体全体、どうなってんのか説明して欲しいよ、俺は。なぁセンセ…」

 巫山戯た調子で言ってみるものの、正直内心はびびりまくってる。頼りのセンセに目を向けてみるも、彼女でさえ今の現状が理解しきれていない様だった。

 目を見開き、わなわなと震えている。

「まさか…コイツ倒すのも実力を見る為、とか言わないよな…いや、寧ろそっちの方が安心かもな…」

 俺と同じように巫山戯た調子なのはキース。しかしその声は緊張しているのか、いつも程うざったいぐらいにすらすらと出てこない。

「…悪い冗談だ。」

 珍しいこともある。アスラまで俺とキースの悪ノリに付き合いやがった。その顔は苦虫を噛み潰した様な、かなり引きつった笑い方だ。

「冗談で済めばいいけどね…」

「…な、なんとかなりますよね…」

 トリノもユミルも、苦笑いが顔にこびり付いている。なるほど、恐怖に直面した時人は笑う、と言うのは満更嘘でもない様だ。

 下らない事が頭を過ぎる。しかしそんな現実逃避でもしないと、恐怖でどうにかなりそうだった。

「やべぇな…マジで…」

 目の前の蟹お化けのプレッシャーに気圧され、じりじりと後退する。背中には厭な汗…

 リン…とその時、俺の背中で微かに鈴の音がなる。

「イヴ…」

 少女のか細い手が、俺の上着をひしっと握っている。その白い身体を、俺の背に隠そうとして…

 ピッグを握った右手に力を込める。

「………ダッセェな…ビビるなんてよ…なぁイヴ。」

 淡いブルーの瞳を覗き込む。そして俺は、にかっと笑った。



 そんな馬鹿な。あり得ない。

 人語を解する高い知能を持ったモンスター、通称『魔族』と呼ばれる存在が目の前にいる。

 そして厄介なのはその知能に比例する様に、他のモンスターとは一線を画するその戦闘力。悪魔的な力、と表現される程の。

 なぜこんな所に?ここはベッツィーニに近く比較的安全な場所とされている。

 少なくとも、魔族の存在やその存在の痕跡が今まで確認されたことなど一度もない。

 しかし、目の前には居る。悪魔的な暴力の行使者が。

 本物を見るのは初めてだ。しかもこれ程巨大な物など、教典にすら載っていない。

 どうする?勝てるか?逃げるか?いや…そもそも生き延びれるか…

 神経を魔族に集中させつつ、目だけを動かし六人を見る。

 全員、微かに震えたまま動かない。目は恐怖に駆られた色を示している。当然だ、こんな圧倒的な存在を目の当たりにすれば、一流のハンターですら動揺する。駆け出し未満なら尚更だ…

 ………?

 しかし唯一の違和感を感じた。たった一人、たった一人だけ生きた目をしている者がいる。

 紅い髪、紅い目、褐色の肌に入れ墨を彫った、まだ少年とも言える顔立ちの…

「イド…お前…」

 あの赤色の楽器を持って構え、全身から溢れんばかりの闘気を練っている。

 何という…胆力。この状況で、まだ彼は自分に出来ることをただ行おうとしているのか!!

 情けない…聖騎士たる自分が、守るべき生徒の前で臆すなど…

 私はふっと自嘲混じりの溜息をついた。迷うことはない。今自分が為すべき事は。

「お前達、ここは私が食い止める。急いでベッツィーニに戻れ!!」

 ただそれだけだ。



「お前達、ここは私が食い止める。急いでベッツィーニに戻れ!!」

 高らかに叫んだ先生の声は空洞中に響き渡った。木霊が幾つも聞こえては消えて行く。

 目の前の蟹の魔物を見て恐怖に飲まれていた私は、その大声にようやく我に返った。

 他の皆さんも同じ様で、でもまだ惚けている感が抜けきっていない。

「早く!!応援を呼ぶんだ!!」

 それでももう一度、先生の叫びが木霊すと私たちは一斉に来た道を駆け出そうとしていた。

 でも。

「!?イドさん、早く逃げないと!!」

 アトリス先生の背に、スターレッドを構えたまま動かないイドさん。そしてその背に付き従うイヴちゃん。

「馬鹿!!俺様達が居たって足手まといなだけだ、応援を呼ぶのも立派な役割だろ、早く逃げるんだよ!!」

「血迷ったのかい!!」

 キースさんやトリノさんが怒声にも似た叫びをあげる。

 それでもイドさんは動かない。静かに、ただ構えたままの姿勢。

「逃げる…?落ち着けよ…どこから逃げるって言うんだ…?」

 全員の混乱と焦りを沈めるぐらい、静かで落ち着いた声。

「なるほど…まさか気付けないとは…」

 そっと呟いたアスラさん、その視線の先に皆の目が…

「あぁっ…」

 ようやく私も気付いた。視線の先、ついさっき私たちが入ってきた道は、さっきの地震で崩れたんだろう、巨大な岩石によって塞がれてしまっていた…

「逃げ道無し…ってか…はは…最悪だ…」

 血の気の引いた顔で、諦めの混じる声でキースさんが呟く。

 ちりちりと首筋が焼ける様な恐怖…ぬるりとした負の感情が私たちを包んで行くのが解る…

「そんな…」

 振り向けば、巨大な魔物。その巨躯だけで怖れを抱かせ、足が震える。

 死。

 その絶対の真理にして万物が最も平等となる瞬間が、間違いなく我が身の側にあることを感じずには居られない。

 胸の奥から込み上げる様々な感情が一つに収斂されて行き、喉から悲鳴となって放たれる、その瞬間だった。

「やるしかねぇだろ!!」

 先刻まで静かなままだったイドさんが叫んだ。

 私たちには彼の背中しか見えない。それでも。

 その背中は大きく見えたのは、私だけじゃなかったはず。

「やるしかねぇんだ…」

 彼がもう一度そう呟いた時、私たちは身構えた。

 逃げる為ではなく、戦う為に。



「覚悟は決まったか?脆弱な人間共…」

 蟹の化け物がその馬鹿でかい口を動かし、人語を話す。

 かなり奇妙で奇天烈な光景だ。

 畜生…でも笑えないぜ…

 全員逃げ道を塞がれたことで戦う気になったみたいだけどな、冷静に考えれば全くの無謀だぜ。真っ正面からやり合って、全滅。

 最悪のバットエンドが俺様の頭で何回も繰り返されてる。

 戦うより、落石をなんとかぶっ壊して逃げた方が絶対生存率は上がる。…誰かが犠牲に成るだろうけどな。

 解ってるはずだ、全員そんなことは解っているだろうし、もしかしたらセンセも自分が犠牲になるつもりで逃げろと言ったのかも知れない。

 …正直言えば、俺様はここから一秒でも早く逃げ出したい。勝ち目の無い勝負をする程、俺様は酔狂じゃ無いんだ。

 でも、な。

 ………例え即興の仲間でも、置いて逃げる様な腑抜けじゃねえってんだよ!!

「糞が、覚悟云々言ってられっか蟹野郎!!口から泡吐かせてやるぜ!!」

 自分を奮い立たせる様に張り上げた声。これ以上無いというスピードで印を組む。

『権威、支配、帝王の力よ 疾く侵略し、灰燼へ誘え 絶えること無き永遠の焔 我が敵を焼き尽くせ 古の契約に基づき 我が声を聞け 火の精よ来たれ…』 

 印を組み終え法陣が顕現したと同時に詠唱を終える。後は精霊の名を呼ぶだけだ。

 その刹那、後ろを向いていたイドと目があった。あいつは小さく頷いた。…面白れぇ。

「焼き蟹にしてやるぜ…サラマンダー!!」

 俺様の魔法陣から三つ又の矛を持った火蜥蜴が現れる。俺様が使役できるのは同時に三匹が限界、一斉にその三匹は化け蟹へと向かって行く。

「開戦の狼煙だ!!行くぜ」

 イドの声が木霊す。…はは、それはアトリス様の台詞だろ。



「糞が、覚悟云々言ってられっか蟹野郎!!口から泡吐かせてやるぜ!!」 

 咆吼の様なキースの声。先程まで恐怖に支配されていた目は今や戦う者のそれと成っている。

 叫びに呼応する様に、アスラは刀を抜き、トリノは槍を構え、ユミルは杖を握り、イヴは静かに身構えた。

 …全く、信じられない奴等だ。この土壇場で、魔族とやり合おうと?

 ………仲間を見捨てて逃げる者が一人もいなかったことを、私は嬉しく思う。

 ここから生きて帰れたなら、私はお前たちを誉めてやりたい。

 そして。

「開戦の狼煙だ!!行くぜ」

 イド、お前は表彰してやりたいくらいだ。ああ、生きて帰らないとな…


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