夏の終わり










 暦が八月から九月へと遷ろうとする頃。丁度厳しい暑さも一段落し、虫の音が聞こえる様になると、私は思い出す。

 幼い頃の思い出。苦い、苦い、あの感情を。



 あれはまだ、私がまだ幼かった頃。

 長い夏休み、共働きの両親が私を田舎の祖父母に任せた最初で最後の夏だ。

 田舎は山に囲まれた、田んぼばかりの所だった。

 盆地特有の茹だる様な暑さ。立っているだけでも汗が滲み、アイスがとても美味しかったのを覚えている。

 夏の太陽が降り注ぐ空の下、私は地元の子供たちと毎日遊び回っていた。

 虫取り、川釣り、鬼ごっこ、かくれんぼ。

 身体を動かし肌を焼き、汗を流すのが日課だった。

 その日も、私は影が長く伸びるまで外で駆け回っていた。

 夕日が空を橙に染めると、子供たちは皆家へと帰って行く。

 しかし田舎の民家特有の薄暗さが幼心に恐ろしかった私は、いつもいつも最後まで遊び続ける子供だった。

 なかなか家に帰らない私にいつも付き合ってくれた相手がいる。

 祖父母の家から少しいった所に住んでいた、私の従姉妹だ。

 一つ上の彼女は周りの子供と同じように外で駆け回っているにもかかわらず、白い肌が印象的だった。

 親戚ながらなかなか顔を合わせる機会が無かった彼女だったが、良くしてくれたと思う。

 姉の様な存在だった。慣れない田舎の生活も、苦にならなかったのは偏に彼女のお陰だ。

「明日帰るん」

 西の山に太陽がゆっくりと沈む頃、彼女は独特の訛で言った。

 明日には親が迎えに来る事になっていた。私は言葉無く頷く。

「ならやり残したこととかないん。やりたいこととか」

 きっと一つ上の彼女なりの気遣いだったのだろう。背伸びしたい年頃でもあったはずだ。

 しかし当時の私はそんな機微を理解できる様な早熟な少年ではなかった。単純に自分の希望を告げる。

「川、渡ってみたいわ」

 彼女を真っ直ぐ見れないまま、私は呟く様にそう言った。



 川底が見える位に澄んでいる。

 夕日を受けて光る水面は綺麗だった。

 川縁に私と彼女が立っている。

 青草を踏みつけて、私は川の対岸を睨んでいた。

 大した距離があるわけでもない。しかし当時、私にとっては彼岸と同じくらい遠い所だった。

 周りの子供たちは器用に突き出た岩から岩へと飛び移って対岸まで行っていた。

 まだ私は、それをしてみた事が無かったのだ。

「気付けてな」

 彼女は私の後ろから激励の声を飛ばす。

 小さい自尊心が膨らんだ。

 一歩踏みだし、まずは表面の平らな岩へ。

 片足が付いた瞬間、勢いが死ぬ前にもう片足を前に出した。

 少し表面の傾いた岩、立ってはいられないだろう事はよく解っていたので、足の裏が付いた瞬間再び飛び跳ねる。

 次はまた平らな岩だった。

 しかし私の足は丁度苔の部分を踏んでしまい、滑ってしまった。

 頭から川へと落ちる。

 本当なら足が付く深さだ。しかし混乱が私を支配してがむしゃらに暴れてしまう。

 私は溺れたのだ。

 服が水を吸い、どんどん重くなる身体。一瞬全身が水に包まれ、私は思い切り水を飲んでしまった。

 いくら澄んでいるとはいえ、泥臭さが耐えられなかった。

 ばたばたと振り回す私の腕を掴んだのは、白い柔らかな手だった。

 彼女に引っ張られ、ようやく川から解放された。

 飲んだ水を吐き出そうと何度も何度も咳をした。背を彼女がさすってくれたのがありがたかった。

 そして情けなかった。

「大丈夫なん」

 心配そうに顔を覗き込む彼女の目を、私は見れなかった。

「こんな事もあるわ。取り敢えず服脱ぎ、風邪ひくわ」

 呼吸の落ち着いた私の服に、彼女の細い指が伸びた。

 小さな自尊心がきりきりと痛んだ。

 溺れた所を見られて助けられた上に、服まで脱いで裸を晒しては。

 自分勝手な振る舞いだった。

「触らんでいい」

 思い切り、私は彼女の肩を突き飛ばしていた。

 細く華奢な肩だった。

 彼女は尻餅をつくと、驚きと困惑の入り交じった目で私を見た。

 その目に怒りや蔑みの色が浮かぶのを見るのが怖くて、私は駆け出していた。

 水を含んだ靴が気持ち悪かった。

 祖父母の家に付くと真っ先に服を脱ぎ散らして、風呂に入った。

 そして二人と口を交わすことなく、夕飯も食べずに布団を敷くと、潜り込んで目をきつく瞑った。

 早く時間が流れるのを願った。



 気付くと日が変わっていた。

 昨日のことを聞きたげな祖父母を無視しながら朝食を済ますと、父の車の音が聞こえた。 挨拶に彼女の家に行ったが、私は車から降りれなかった。

 両親は笑っていた。照れているとでも思ったのだろう、彼女がまたおいでと言っていた事を伝えてくれた。

 酷く、胸が痛んだ。



 訃報を聞いたのは夏も終わろうとしていた頃だ。

 彼女が死んだ事を手短に親から伝えられた。

 あの川で溺れたらしい。

 私はその日、布団に潜り込んだ。

 私に出来た事は、ただひたすら、今日という日が終わる事を願うばかりだった。



 夏の夜が伸びると、眠れない日が続いてしまう。

 早く秋にならないかと、布団に潜り込む癖は未だ直らない。









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