トラウマパンク クラシックのCDと映画のDVDとマンガと哲学本がバベルの塔みたいに高く積み上げられたこの四角い檻。 神の雷は未だ落とされることなく、自らの怠惰と慢心を示すかのように塔はまだまだ高くなる一方だ。 部屋中の灯りは未だ灯は付かない。充電量で動くパソコンのモニターとカーテンの隙間から時折差し込む稲光が最後の光。 何処かに落雷したのだろう。街中が死んだように暗い。 停電したままの部屋には雨音と微かなモ−ター音、そしてキーボードを叩く無機質な響きだけが充満している。 その戦慄はまるでレクイエム。死んだ世界へ送る調べ。 嗚呼、酷く気分が悪い。 俺は眼帯で隠した左目を押さえる。正しくは、左目の在った場所を。 眼球を亡くした其処はいくら強く押しても反作用を俺の手に伝えることはなく、空虚な穴があることを改めて思い知らせてくれる。 そう、あの日もこんな酷い雷雨の夜だった。 視力を失いつつあった左目の手術の為に、眼球に注射をされたあの日。 視線を外しているとはいえ、近づく針の先端は見えていた。 白目に進入してくる異物。その違和感と痛み。 厭な汗をかいた。生まれて初めて恐怖の味を知った。 その日から先端恐怖症だ。精神科に言わせればこれが所謂トラウマらしい。 軽く言ってくれる。 当然だろう? 手術の失敗で目を亡くさなくたって、あんな事されれば誰だって、先の尖ったものなんて直視出来るはずがない。 くそ、目に入る光が針のようだ。 すっかり冷めてしまったコーヒーを啜る。煮詰めすぎた、香りは消し飛び苦みしかしない。 空虚さだけが募る。 亡くしたものを、何かで埋めようとハッキングばかり繰り返しても、自分には無価値な情報だけがメモリに募るばかり。 痛みを共有して貰おうとウィルスをばらまこうと、心に傷を負わすには至らない。 解っていた事だ。 けれどいつもはそれで満足なのに、こんな雷の日は救われない。どうしても、思い出してしまう。 あの感覚。あの感情。 煙草を銜え、火を付ける。電子機器は粒子に弱いが、壊れれば買い換えればいいだけの事。代わりがきくって羨ましいね。 揺らぐ煙が目に入り、思わず目を擦る。その時肘がマウスに当たったのか、折角途中まで進んでいたハッキングが閉じられた。 溜息混じりに煙を吐く。まぁいいさ。気分が乗らないんだ… 気分転換に匿名性の高いファイル共有ソフトを立ち上げる。アップロードはしてないから捕まることはないだろう。 しかし立ち上げたはいいが検索キーワードすら思いつかない。 仕方がないから悪戯に『sex』と入力する。暇つぶしに辞書で隠語を調べるのと同じ感覚だ。 世間様に性が溢れかえっているのを示すように、馬鹿みたいにファイル名が画面に表示される。この幾つに俺の作ったウィルスが隠されているんだろう。下らない事しか思いつかない。左目を亡くしてから、俺は人として大切な何かを一緒に亡くしてしまったようだ。 「…Sex Pistols?」 残された右目が、下品な緑色のそんな文字を見つける。 聞いたことがある、確か有名な、昔のパンクバンドだ。 18禁の画像や動画に混じって音楽ファイルがあるなんて、なかなか滑稽だ。数ある騙しファイルの中から見つけたのも何かの縁だろう。迷うことなくダブルクイックし、ダウンロードを開始する。 待ち時間は苦痛以外の何物でもなかった。針の幻影がちらつく。目を閉じても、脳に焼き付いたように。畜生が。 ようやくダウンロードが終了する頃には、不味いコーヒーを飲み終えていた。 圧縮されたファイル形式は、俺の持つ解凍ファイルで開ける。フォルダ名は、 「Never Mind the Bollocks Here's the Sex Pistols…」 中身は12個の音楽ファイルだった。適当に一つを再生させる。すると。 ど下手なギターサウンドがスピーカーから放たれた。ヴォーカルの英語も訛がきつくて正直汚い。 単調なメロディ、リズム。お世辞にも上手いとは言えない演奏。叫んでいるだけとしか思えない歌。 音楽性の欠片もない。はっきり言って音楽として駄作だ。雑音といっても過言じゃない。 でも、何でだ。 この、胸がすくような思いは。 思わずにやけている自分に気付く。下らない、実に下らない。 そう思いながらも、俺はスピーカーの音量をマックスにした。腹の底に響くようなノイズが、今は心地いい。 『Fuck this and fuck that fuck it all and fuck the fucking bard...』 全くだ。トラウマなんて糞喰らえだ。 鎮魂歌の旋律が、破壊のサウンドに飲み込まれてゆく。 たまにはこういうのも、悪くないかも知れない。 Sex Pistols『Bodies』より一部引用 |