明日への扉









 明日への扉っていうのは、

 ノックするには遠くに在りすぎて、

 そのくせ勝手に開き、

 こっちの都合お構いなしに閉まろうとする、

 タチの悪い存在だ。

 私らはそんな扉に閉め出されないように、

 今日という日に取り残されないように、

 毎日身を削るようにして生きている。





 私の好きな女性シンガーが歌ったように、JR新宿駅の東口を出れば歌舞伎町はすぐそこだ。

 五月の末。馬鹿みたいに人で溢れかえった日暮間近の新宿。空は昼間とうって変わって、大きな雨雲が西の空に見える。

 もしかしたら降り出すかも知れないのに、六大学野球の締めくくりにとコマ劇場前に集まった某大学生はお構いなしに騒いでいる。

 私はその人波を掻き分けて、ようやく店に着いた。

「おはようございます」

 14歳のときに声を嗄らせて手に入れた、私の『女性』の声が響く。

「外、煩いわね。優勝決まったの?」

 暗い店内の奥から、口調にそぐわないママの太い声。競馬新聞を眺めながらタバコを吹かし、組まれた足には編みタイツ無駄毛を剃った跡がよく見える。

「おはよう、薫」

 耳に乗せていた赤鉛筆で丸を書いて新聞をおろすと、ママの顔が目に映る。髭は剃ってしばらくたってしまったのだろうか、うっすらと顎の周りが青い。眉は、相変わらず太かった。

 ママはこの店のママで、見た目はどうあれ『女性』なのだ。気持ちの上で。

 一昔前は変態と括られていた人種だが、ようやく最近性同一障害という、まぁ、一応の、大した意味はないのだけれど、市民権を得た存在。性的マイノリティとか、いわれたりする人。

 私もその一人だ。

 薫という、『男』にも『女』にも使える名前を付けられたせいか、それとも環境ホルモンとかのせいなのか。兎に角、私は小さいときから自分が『男』であることに違和感を感じていた。股間にある存在が許せず、第二次性徴は、地獄だった。

 喉仏が出てきて声が低く、太くなることを恐れて、私は毎日毎日声を張り上げた。声を潰すおそれと針で刺されるような痛み、その代償として得たこの声は、私のアイデンテティだ。

 細く、高い、『女性』らしい声。

 これがなかったら、私はどうにかなっていたかも知れない。

 その時店の奥、トイレのドアが開いた。

 ベルトを直しながら出てきた『彼』は、私の顔を見てにっと笑う。

「おう、馨。おはようさん」

 マコト。名字は知らない。もしかしたら、マコトも本名でないかも知れない。

 マコトは、私と逆だ。気持ちは『男』なのに、身体は『女』。

 私にとって、初めて好きになっても許される相手。

「ウチは公衆トイレじゃないよ」

 ママは新聞をたたむと、煙草に火を付けた。

「外五月蠅いけど、なんかあった?」

 ママの愚痴には耳をかさず、マコトはカウンターに置かれたママの煙草を一本引き抜く。

「大学野球。ほら、優勝決まったから」

 ちなみに優勝したのは、私の通う大学だ。

 ああ、とマコトは頷きながら、ママに火を借りていた。

「行かなくていいの?」

『彼』はそう言って、顎でコマ劇の方を指した。

「私行くと、浮くから」

 まぁな、といいながら煙を吐く。ママは溜息をついた。

「いつまで経っても、あたし等への風当たりは強いねぇ………」



「性同一性障害者の性別の取扱の特例に関する法律」が制定されたことで、日本でも一応性転換が認められることとなった。

 でも、その要件は驚くほどに厳しい。

 以前、どうしてこんなに世界は『男』と『女』だけで出来ていることにしたいのか、マコトと話したことがある。

「ようは勝手な思いこみだろ。性別二元論っていってさ、思いこみが概念を強化して常識化する。それが道徳や無意識のレベルにまで刷り込まれて、ジェンダーやらなんやらの問題になるんだろうな」

 ベットに寝そべりながら煙草を吸うマコトの横顔を、私は見て思う。

 心は『女』、身体は『男』な私の性愛の対象は、心に引っ張られたのか『男』だった。対してマコトは、心は『男』、身体は『女』、そして性愛の対象が『女』。

 ツーピースしかないパズルのように、なんて奇跡的に繋がったのだろう。

 私たちのように幸運な、マイノリティもそういないだろう。

「聞いてる?」

「聞いてるよ」

 顔を覗き込んだマコトに、私はにっこり笑って答えた。

 数少ない、幸福な思い出。



「区別化すればいい、ってものじゃないですよね」

 過去をぼんやりと思い出していた私は、ふっとそんなことを呟いていた。

「どういこと?」

 灰を落としたマコト。ママも私の方を見る。

「ほら、最近って………最近でもないか。人間って、事実を理解するために色んな事を細分化して、区別化して、カテゴライズするじゃないですか。だから、私たちみたいにどっちつかずな、グレーゾーンの人間って邪魔になんですよ。認識外、みたいな」

 まーねー、とマコトは頬杖をついて外を見た。

 私もつられて窓を見る。空はもう、一面雨雲に覆われようとしていた。

「法律がいい例だよな」

 外を見たまま眼を逸らさないマコトが口をついた。

「あれってボーダーを引くのが本質だからな。ブラック・オア・ホワイトの世界。そこにグレーはない」

「ちょっと、法律ってさ、もっとこう………弱者救済というか、道徳的なものだろ?なんであたしらの事、ちゃんとまもってくれないんだろうねぇ………」

 今まで黙っていたママが口を挟んだが、何かに気付いたのか言葉尻は消え入るようだった。

「守るような法律は、無い………ってか」

「それに」

 マコトは、外を眺めたままだ。

「法律は道徳を強制するもんじゃないしね。………雨か」

 灰色の空が覆った空から、雨粒が降ってくる。雲が灰色のグラデーションを作っている。

 空はといえば、雲の隙間から夕闇と青空がオレンジから紫を経て暗い蒼を見せていた。

「世界はこんなに曖昧に出来てるのにね」

 なんで私たちは、たった二つの枠に縛られないといけなんだろう。いつまで………

 愚痴をこぼそうとしたら、ママが言った。

「さ、そろそろ開店の準備するよ」





 時間は容赦なく進む。

 準備も出来てないのに、今日から明日へ私たちを連れて行く。

 明日への扉の前に立たされる。

 残酷な運命の門。

 今日も明日も、強い向かい風が吹いてくる。



 あの門も、滲むように曖昧にしてやりたい。











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 キリリクSS“明日への扉”。  
 ネット断絶事件に見舞われ、こんなにも遅れて本当に申し訳ありません。  
   
 それでは、勿論返品可です。お気に召さなければご一報を。





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